悟りとは その3 ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのEnlightenmentの翻訳紹介の続き。これで完結。(その1その2)

== 以下、翻訳 ==

自分は悟っているというストーリーに夢中になっている教師は大勢いる。そうしたストーリーを彼らは何度も繰り返し好んで語る。私たちは、公園を横切っているときに悟ったという話や、台所にいるときに自我が永遠に消えてしまった魔法のような瞬間の話を耳にする。悟りは、個人的な経験、達成、永続する状態として描かれている。だが、そうしたいかなる経験、あるいは達成も、夢の中に現れるひとつの節目にすぎない。確かに、目覚めているときの人生という夢に似た映画の中には、突然起こった劇的な変容について語る登場人物がいる。また、群を抜いて明晰で、迷妄から解放されている登場人物もいる。だが、永遠に悟っていたり、永遠に迷妄の中にいるような人は誰もいない。あるときは芋虫で、次の瞬間には蝶になっているような人も誰もいない。芋虫も蝶も存在していない。あるのは、そこから何ごとも離れることのない、途切れのない統一性だけだ。真の教師は、自分を崇拝したり理想化したりすることを促すことはないし、むしろ自分を特别化して崇めようとする人がいれば、そうした試みをすべてかわしてしまうだろう。真の教師は、あなたが何かに頼ろうとしたら、その頼っている対象を何度でも取り上げる。依存できるものを繰り返しあなたに渡し続けるということはない。悟りには始まりも終わりもない。悟りは、あなたがそこに入ったり、そこから出たりできるようなある状態ではない。目覚めるということには、ゴールのラインは無い。悟りは常に〈今〉あるのだ。

縄が縄であって蛇ではないということが明確に認識された後でさえ、別の瞬間には、また縄を蛇と見誤るということはありえる。そしてその見間違いが起こったとき、身体は自動的に、恐れ、収縮、萎縮、という反応をする。その縄が蛇であったことは一度もないのだが、ほんの短い間だけ本当の蛇に見えることはある。それは、「私」が本当に存在したことは一度もないにもかかわらず、しばらくの間、本物であるかのように見えるのと同じだ。この錯誤の仕組みが完全に明らかになって、同じ錯誤は何があっても絶対に起こらないようになる、ということはあるのだろうか? この質問、この心配は誰に対して生じているものだろうか? 間違えたくない、愚か者でありたくないと望んでいるその誰かは存在しているのだろうか? 次の瞬間に何が起こるか、誰も知らない。どんなときでも、分離という幻想が生じる可能性はある。ただ、この錯誤が二度と再び起こってほしくない、という欲求が消えるということは、もしかしたらありえるかもしれない。

縄を二度と蛇と間違えない境地に到達しなければならないとか、「私」は分離した誰かではなくて「統一性だけ」が存在しているのだということを「私」が二度と忘れない境地に到達したいとか、そのように考えている「私」は誰の「私」なのだろう? 無限性がしばらく忘れられて、「私」は分離した誰かだという感覚に覆われてしまったとして、誰がそんなことを気にしているのだろうか? この経験は誰のものでもなく、無限性そのものが分離や封じ込めという幻想として現れているのだ、ということが認識できるだろうか? もし催眠状態が再度起こったとして、誰の自己イメージが傷つくというのだろう? 「私」は完璧でありえるが、「残りの世界」はそのまま迷妄の中にあるというようなことを想像しているのは誰だろう? 悟りというものは素晴らしいストーリーだが、真に目覚めるとき、夢の中の登場人物と彼らのドラマはそのあるがままの姿で明確に認識される。つまり、そうしたものは実体のない想像にすぎないのだ。

確かに、目覚めているときの人生という映画の中には、いろいろな経験をしたり、いろいろなことを表現する沢山の登場人物がいる。登場人物によって、波乱が多かったり少なかったり、怒りが多かったり少なかったり、憂鬱が多かったり少なかったり、衝動的な行動が多かったり少なかったり、気が動転することが多かったり少なかったりする。そうした違いは、悟りとはほとんど関係なく、遺伝、神経化学反応、脳の機能、ホルモンレベル、条件付けといったことに大いに関係する。ある身体・マインドにとっては波乱が多いが、それは、ある都市が他の都市よりも荒天に見舞われやすいのと変わらない。そうしたことは個人的なものではないのだ。「ジョーン・トリフソン」と呼ばれているこの人間がどこで始まりどこで終わるのかということを調べてみると、始まるも終わりも見つからない。この「人間」をつかまえようとしたり、正確にそれが何なのか突き止めようとしたりしても、見つかるのは絶え間ない変化だけだ。では、この悟るかもしれないし、悟らないかもしれない、その想定されている存在というのは正確には何なのだろうか?

目覚めているときの人生という夢に似た映画の中では、ジョーンはもはや悟りを求めてはおらず、ここにあるのは、混乱をすっきりさせ、迷妄の本質を理解し、目覚めた状態にあることに関する自然な関心だ。だが、「目覚めていること」や「〈今〉にあること」といったことが「私」の取り組みべき課題なのだ、という感覚はもう無い。「自分はジョーンではなく気づきだ」ということを忘れないようにしようとする自意識過剰な努力は無い。いまあることが、ただありのままにあるだけだ。どんな経験もどんな意識状態も、もともと現れては消えるものだ。そこには、悟りや迷妄も含まれる。分離の感覚は生じることがありえる。「私」や「私の」自己イメージを守ろうとしたり、「正しく」あろうとしたり、抵抗したり、反対したり、つかもうとしたり、主張したり、違っていると感じたり、優っている(又は、劣っていて欠けている)と感じたり、怒ったり、むきになったり、傷ついたり、といったことだ。そうした自己の収縮は生じえる。それを誰がしているわけでもない、ということは明白だ。それは無数の原因や条件から生じるものだ。個人的なものではない。こうした傾向の本質を理解して、そこから目覚める、ということについての自然な関心はここに生じるようだ。そして、この探求と探究はいろいろな形をとる。こうしたこと全てもまた、無数の原因や条件から起こる。そのいずれについても、それをしている人は誰もいない。生は、完全で分かつことのできないひとつの動きだ。

悟っているということは、完璧で特别ですべての答えを知っているというようなことではない。完璧である必要がないこと、すべての答えを知っている必要がないということだ。悟りとは、不完全さの中に完全さを見ること、平凡の中に非凡を見ることだ。唯一のリアリティは〈ここ・今〉だ。ラマナ・マハリシがとても見事に表現したように、「経験は現在においてのみ起こる。経験を超えて、経験を離れて、存在するものは何もない」。〈ここ・今〉において、悟りも、迷妄も、人間も見つからない。あるのは境界のない存在だけ、果てしない今の瞬間だけなのだ。この無限性に終わりはなく、この展開していく自己認識に終わりはない。

自分が悟っているかどうか、あるいは誰か他の人が悟っているのかどうかということを確かめようとするのではなく、他の人を理想化してたてまつり無謬の権威にしてしまうのではなく、誰か他の人が体験したと信じている悟りの経験を再現しようとするのではなく、自分が探しているのは一体何なのか、それは今ここに本当にないのかどうか、誰あるいは何がそれを見つけたり持っていたり持っていなかったりするのか、ということを調べてみてはどうだろうか。何も欠けておらず、不完全なものは何もなく、必要なものは何もない、ということに気づくかもしれない。あるのはただこれ、ありのままのこれだ。

そして、もし自分が不安、不足、心痛の感覚を感じているということに気がついたら、その瞬間、自分にこう訊ねてみてはどうだろうか。この不安、不足、心痛の感覚は本当に問題なのだろうか? 何か不完全なことが本当にあるだろうか? そして、もし不安を解消しようとして、あるいは空虚さを埋めようとして、何かの本を手に取ろうとしたり、ウェブサイトを見ようとしていたら、そして、もしこのことを本当に「わかる」ためにもう一回サットサンかリトリートに行かないといけないと考えていることに気づいたら、もしかしたらその瞬間、こういう質問が生じるかもしれない。私は何を求めているんだろうか? 私はどこで、いつ、それを見つけられると思っているのだろうか?と。

悟りは、今ここにあるか、それとも決して無いか、そのどちらかなのだ。

== 翻訳は以上 ==

これだけ繰り返しジョーンに言われると、悟りというものが状態でもなく、個人的なものでもないということ、そしてそうとは思えないとしたら、自分が「悟り」に何を投影しているのかに注意を向けてみる、ということがだんだん分かってくる。

ジョーンから翻訳許可をもらっている文章があと二つほどあるが、それについては急がずに、いつか取り掛かりたい。

下の動画は、悟りを対象物として外部に求めるという一般的な傾向について、2008年のインタビューでジョーンが語っているもの。

Joan Tollifson, No Achieving what’s already Here

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