悟りとは その2 ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのEnlightenmentの翻訳の続き。(その1はこちら)

== 以下、翻訳 ==

このウェブサイト (訳註: joantollifson.com)を訪問する人の大多数が、覚醒を追求しているか、あるいは悟ろうとして努力をしていることだろう。誰々は覚醒しているけれど誰々はしていないとか、普通の人だった誰々さんがいかにしてまったく自我のない状態に至ったか、というような話は沢山ある。私たちは、「悟り」や「覚醒」は何か魔法のような出来事であり、それによってすべての問題は消え去って再び現れることはなくなり、至福の状態に永遠に留まることになる、という想像をしたがる。「完璧な人々」という神話を信じたいのだ。

もし誰かが悟っていると信じているとしたら、その人の言うこと全部を真実として信じるのだろうか? 私たちが求めているのは、あらゆることについての正しい答えを与えてくれる権威者、私たちの目を覗きこんでエネルギーの一撃を授けてくれる「魔法のグル」、私たちを無条件に愛し続ける「神聖な親」のような人なのだろうか? 本当は私たちは何を求めているのだろう?

「悟り」も「覚醒」もいずれも言葉であるということを忘れないことは、とても役に立つ。この二つの言葉は、いろいろな違った意味で使われている。ある人は悟りとは苦痛がないことだと言い、ある人は悟りとは役に立たない思考がないことだと言い、ある人は悟りとは思考するマインドとの同一化が終わることだと言い、ある人は悟りとは自我がないこと、あるいは分離した自己の消滅だと言い、ある人は悟りとは作用者という感覚が全くないこと、あるいは起こってくる思考や行為を自分が創造しているという信念が消えることだと言い、ある人は悟りとは「一体性」を認識することだと言い、別の人は違いと単一性が融合することとして悟りを表現する。悟りを、目覚めた状態における明晰夢だと喩える人もいて、そういう人たちは、目が覚めている時の人生という映画全体、スピリチュアルな探求全体、探求をしている主体を含めたすべての意識は夢の状態にあるという明確な理解が悟りなのだと言う。ある人は悟りや覚醒はエネルギー的な転換だと言い、ある人は悟りを感じられる感覚と呼び、別の人は悟りとは明確に見ることだと言い、ある人は悟りを理解、あるいは統覚として表現し、ある人は悟りとは真理の認識を体化すること又は実現することなのだと言い、また別の人は、悟りは最初から常に実現されているのだと主張する。

ある人たちは、悟りとは永続する至福の状態であると考え、他の人たちは、悟りはあらゆる状態を含んでいてそれを超越するものだと言う。覚醒は聖人のような行動によって証明されると主張する人もいれば、悟っていながら同時にアルコール中毒だったり、女たらしだったり、怒りが爆発する傾向があったり、もしかしたら幼児を性的に虐待する人だったりすることさえありえると言い張る。ある人は、悟りは何日の何時何分という形で特定の時に突然起こり、元に戻ることはなく、最終的で永久の転換なのだと言う。他の人は悟りは段階的に展開するものであり、それは写真が現像皿の中でゆっくり現れるようなものであるか、あるいは霧の中を歩いているときに徐々に濡れていくようなものか、あるいは水たまりが少しづつ蒸発していくようなものか、あるいは角氷が次第に溶けていって最後には何もなくなるようなものだと表現する。悟りは〈今〉にしか起こり得ないという人もいれば、全く何も起こったことはないのだと言う人もいる。「悟り」「覚醒」「解放」「見性」「サトリ」「解脱」というようないろいろな言葉を区別する人もいれば、それらを大体同じ意味の言葉として、使い分けずに使う人もいる。誰が正しいのだろうか? 誰が本当に悟っているのだろうか?

苦しみや迷妄、自己の感覚、自分が行為を始めている主体だという考え、あらゆる自己中心的な思考や行動といったことから、いかなる時も完全に解放されている「悟った人たち」は存在するのだろうか? どんな時も迷妄や苦しみに完全に飲み込まれている「悟っていない人たち」は存在するのだろうか? まさにその「悟った人たち」と「悟っていない人たち」という観念 (あるいは、どんな人であれ、実体をもっていて存続する「人々」がいるという観念) が、もしかしたら悟っていない考え (あるいは勘違いした考え) のひとつの例だということはないだろうか? 悟っていたり悟っていなかったりするような誰か (あるいは何か) というのは正確には一体何なのだろうか?

私たちは、自分が何について話しているのかさえ本当には知らずに、悟りについていろいろなおしゃべりをする。自分たちが求めていると思っているのは何なのかを、きちんと調べてみるために一度も立ち止まることもなく、悟りを求めている。何であっても私たちが探し求めていると想像しているもの、そして、今ここで何かが欠けているという感覚、それがまさにそこから目覚めるべき幻想なのだということはありえるだろうか?

私は自分が悟っているとも言わないし、悟っていないとも言わない。ある状態であったり、別の状態であったりするような、実体があって存続している独立した存在はここには見つからないのだ。〈ここ・今〉は常に存在し、絶えることはない。ここにはあるときは悟りがあり、ある時は迷妄がある。ある時は晴れた空があり、ある時は曇っていてどんよりとしている。ある時は目が覚めている生活という映画があり、ある時は深い睡眠という無がある。こうした多様な表現は誰のものでもない。このいずれもが個人的なものではないのだ。無限性は、悟りと迷妄の両方を含んでいる。悟りは単一性を認識し、迷妄は分離をつくり上げる。悟りは、迷妄の中にさえ単一性を認識する。迷妄は常に悟りを求めている。迷妄は、悟りはいつか未来の時点に「向こうのほう」で起こるのだと想像する。悟りは今にしかない。

無限性はあらゆる経験を包含している。無限性は、個人を超えた広大な開放性の経験の中にも、分離した個人であるという収縮の経験の中にも、等しく存在している。教師たちは、ある時は、〈一なる自己〉、私たちが「私は在る」と言うときに示している非個人的な実在として話をする。またある時は、彼らは見かけ上の個人として話をする。ラマナが死の床にある時、彼は信者にこう言ったという。「私はいつもここにいる。どこに行けるというのか?」 その時ラマナは明らかに死につつある見かけ上の個人として話していたのではなく、〈一なる自己〉として話していたのだ。教師が「私」と言うとき、場合によってはこの〈一なる自己〉を指していることもある。別のときに「私」と言うときには、その人を表している。単一性としての「私」にとってはどんなことも問題ではないが、ジョーンとしての「私」はあらゆる種類の問題を抱えている。言うまでもなく、「私」という言葉をこのように異なる意味で用いることで、混乱と誤解が簡単に生じてしまう。悟りは永久であり、悟りから出てしまうことはありえないのだと言う教師もいるだろう。そのとき、彼らが指しているのは無限性であり、永遠にあり続ける〈ここ・今〉なのだ。だが、教師のこういう表現に接したとき、人々は、教師が人間としての自分が迷妄を完全に永遠に超越していると言っているとよく誤解し、そう思い込む。

無限性は常にここにあり、ありえるあらゆる形として、ありえるあらゆる経験としてそれ自体を現している。覚醒や悟りのあらゆる経験を含むすべての経験は、夢のような見かけの世界の中にある。夢の中では、ラマナ・マハリシは悟った賢者であって、アドルフ・ヒトラーは妄想する狂人だったということが確かに言える。だが、悟りはラマナとヒトラーを同じコインの二つの面であり、異なっているが、一体であって分けることはできないものとして認識する。悟りは、想像上のコインの片面から別の面に移ってそちらに永遠に居続けるというようなことではない。悟りは、何も問題がないということではなく、どちらかと言えば、悟っているかどうかというようなことを気にする人が誰もいないということだ。

悟りは漸進的なものとして現れたり、突然起こるものとして現れたりするが、それはストーリーの中だけの話だ。ストーリーの中では、(振り返ってみれば) 覚醒は時間をかけてゆっくりと展開した転換であるか、あるいは、突然の決定的な出来事で、その前後で完全に変わってしまうようなものであるか、どちらかのように思える。だが、この想像のストーリーのいずれもが、「悟り」や「覚醒」というような言葉が指し示しているものを本当には表現できていない。

蒸発していったり消えていったり透明になっていったりするような「誰か」は存在しないし、悟っていたり悟っていなかったりするような「誰か」も存在しない。この「誰か」はいつでもただの蜃気楼だ。思考と記憶と想像が創った視覚的な幻想なのだ。分離していて存続するような「誰か」が、悟ったという形をとったり、悟っていないという形をとったり、蒸発するという形をとったり、変容するという形をとったりすることは決してありえない。そのことが認識されると、目が覚めている人生という映画の中の転換という経験が、個人的なものとして捉えられることはなくなる。悟りを探し求めることはなくなる。あるのはあるがままの生、変化し続け、あり続ける〈ここ・今〉のリアリティだ。

何か別のものを求めるということがなくなったとき、この現在の瞬間の生き生きとした様がより鮮やかでより明らかなものとなる。雨やクルマの音、上がって下がる息、コーヒーの香り、花の無償の美、爆弾攻撃の戦慄と悲しみ、現れては消えていく思考とストーリー、それらすべてを見守っている気づき。ただあるもの。そのまま。

分離や封じ込めといったストーリーでさえ、空 (くう) が見せるもう一つのはかない側面にすぎないということを、私たちは認識する。迷妄という問題は、いつでも架空のものなのだ。

身体・マインドに閉じ込められている分離した誰かであるという幻想が現実だと感じられている時、私たちは出口を強く求める。だが、出口は存在せず、身動きがとれないように感じられているその人というのは、ただの蜃気楼だ。現象は、常に光と闇、拡張と収縮の両方を包含している。それらは一緒に起こるものだ。苦しみや迷妄から逃げようと一生懸命になることで、私たちは想像上の問題が存在することを認め、その問題を抱えている誰かが存在しているという見かけの現実が存在することを認める。こうしたすべてを超越した、「永遠に悟った状態にある人々」が存在しているというまさにその考えが、不満足と探求という架空のトレッドミルを刺激するのだ。この永遠に存在し変化し続ける無限性は、「私」が自分のものにしたり経験したり経験しなかったりできるような何かではない。無限性は、収縮を包含する開放性であり、分離を包含する完全性であり、多様性を包含する一体性であり、相対を包含する絶対なのだ。

悟りへの道なき道についての、よく知られている禅の昔話がある。それは、こうだ。「私が禅の修行を始める前、山と谷があった。禅の修行を始めた後、山と谷は無かった。悟った時、山と谷があった」

最初の「段階」は、普通の相対的な意識だ。私たちが考えているような世界、分離した物質的なもので構成される世界で、「こっち」の中から「あっち」の外部世界を見ている
「私」もその構成要素の一つだ。

山と谷が無いという二番目の「段階」では、「こっち」と「あっち」の間には実は境界がなく、すべては分かつことができない全体であって、「私」は存在していない、ということが発見されている。これは、あらゆる異なる経験の中で変わらないものを認識することだ。これは「絶対的真理」の発見だ。だが、これはまだ悟りではない。しばしば悟りと取り違えられるのだが。

そして、絶対にしがみつくことには、二元性が微妙に残っている。真の悟りにおいては、山と谷が再び現れる。善と悪はひとつの分けられない全体の側面であり、それらの間の大きな違いを識別することができる。あるのは時間を超越した、永遠にあり続ける〈今〉だけであり、そして歴史、進化、未来へ向けた計画がある。私は無限の気づきであり、私はジョーンだ。コインのどちらの面も本当だ。このことを禅の師たちは「一即多、多即一」あるいは「相即不二」と呼んだ。山と谷は「一ではなく、二でもない」ということが明確に認識される。生を概念でつかむ必要はなく、そもそも生はつかむことができないものだということが認識される。「私」は「非個人的な気づき」であってストーリーの中のキャラクターではないと絶えず確認する必要は消える。どちらかの状態になれるような「私」は存在していない。

== 翻訳は以上 ==

その3はこちら

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