信念をこえて ジョーン・トリフソン

 
「九月になったら、進んでいない本の翻訳も含めていろいろ再開しよう」、と八月の末頃には考えていた。が、九月になったら実際にはかつてないほど怠けていた。自分が何をしたいのか、そもそも自分は何をしているのか分からず、静かな混乱状態に陥っていた。静か、というのは、焦る感じも出なかったからだ。

昨日の夕方、雷鳴が轟き、寝るときまで雨の音がしていた。

今朝は太陽がギラギラしていたが、午後になるとまた大粒の雨が降り始めた。いつの間にか翻訳を始めている自分に気づいた。

今日は、これまでの続きで、ジョーン・トリフソンのウェブサイト (joantollifson.com)にある文章を翻訳して紹介したい。

Beyond Belief

== 以下、翻訳 ==

人は、他の人から伝えられた信念や考えを、いとも簡単に自分のものにする。それが論理的に聞こえるからとか、それを言った人を尊敬しているからとか、自分の苦痛や不確かさを解決する方法を必死に探しているからといった理由で。また、直接的な (純粋で、たった今の、じかに得た、非概念的な) 経験として始まったものを、人はとてもたやすく信念へと変えてしまう。

たとえば、自分が尊敬している誰かが、自己や自由意志は存在しないと言ったとすると、これを新たな信念、新たなイデオロギーとして受け入れる。あるいは、もしかしたら、自己も自由意志も存在していないということを、自分で直接発見するかもしれない。選択者、思考者、行為者を探してみて (分析的な思考ではなく気づきを用いて)、その結果、探してみたその瞬間、思考や行為の背後には誰もおらず、行為が起こる源となっているような一点を突き止めたり探し出すことはできず、主体と客体の間には実際には何も境界がないということを、直接発見する。それを非常に明確に見る。この、行為の源はなく、分離もなく、舵をとっている誰かも存在していないということを見た瞬間には、この「自己はなく、自由意志は存在しない」ということは、どこかで読んだり分析的に推論して導き出したりしたような、ただの考えでも観点でもない。そうではなく、これは、コーヒーカップや机を見るときと同じように、明瞭に自分で見たことだ。紛れもない、直接的で、経験的な洞察であり、まったく何の疑いもない形で知っていることだ。

ここで、何の疑いもなく知っていることというのは、実は「自己はなく、自由意志は存在しない」といった観念的な表現ではまったくない。もっとつかみづらい何かだ。この、選択者や行為者がいないという経験、明らかにされた分離していない無境界性は、私たちがコーヒーカップを掴むのと同じように掴むことができるようなものではない。この無境界性は、思考や行動の対象ではないのだ。

だが、人は習慣的に何でも把握しようとするし、また、自分の発見を人に伝えようとする自然な衝動も起こる。そのため、この発見を系統立てて概念化し、観念にしようとする衝動はとても強いものだ (そして、これを避けることはたいていできない)。考えを系統立てることそれ自体には、何も間違ったことはない。特に、どんな概念化も、抽象的で記号的な表現にすぎないということに気がついている場合には。ところが、ほとんどの場合、人はこのことが分からなくなる。そして、やがて考えは信念に変わる。間もなく、自己も自由意志も存在しない、ということを言ってまわるようになる。この考えと同一化してしまうことさえあるかもしれない。そうなると、誰かがこの考えに賛成しない場合は、怒ったり、おびやかされたと感じたり、むきになったり、自分だけが正しいのだと思ったりする。ある種の独立した自己や、ある種の自由意志が存在していることを示しているような本に出会ったりすれば、すぐにその本を投げ捨てる。自分の方がよく分かっていると考える。ことによると、心の中では、自分の信念が正しくないかもしれないと恐れているかもしれず、そうなると、自分を納得させるために、更に熱心に他の人を説得しようとする。

こうしたことが起こっているとき、そのすべてに気づいていることはできるだろうか?

これを全部止めようとするのではなく、ただ気づき、展開しつつあるときにごまかさずに見るのだ。他の人とものごとを伝え合うためには、人はものごとを概念という形にして、言葉を使う必要がある。これは便利なことだ。だが私たちは、概念を使いながら、それと同時に、概念化、公式化、言語化に内在する危険に気づいていることは可能だろうか? (たとえば、この文章にある「私たち」という言葉は文法的な便宜のために使われているだけで、現実の中で実際に見つけることができるものではない、ということをたった今認識できるだろうか?) 私たちは、地図と実際の土地を取り違えることなく、そして、その地図が「唯一の真の地図」だと決めつけることなく、地図を使用することができるだろうか?

人前で話をしたり、本を書いたりする人の場合は、特に、自分で言ったことと同一化しやすく、自分の見解を維持して自分の地図の正しさを示さないといけないと考えはじめやすい。結局私たちは、人々がスピリチュアル的な権威のある人たちに期待するような一種の自信や確信をもっているという印象を与えたいと思っている。自分の地図は正確で信頼できるものだと信じたいのだ。自分はあてにならないとか、落ち着かないという印象を与えたくはないのだ。

だが、私たちは何について本当に確信しているだろうか? 安定しているというのはどういうことだろうか? 安定しているというのは、ある信念体系を貫くことなのだろうか、それとも、一瞬一瞬目を覚ますということだろうか? 真の自信というのは何に基づいているのだろうか? それは、特定のイデオロギーに対する確信だろうか、それとも、この瞬間の真実、気づきと聴くことの力に対する深い信頼、ありのままにある生に対する信頼だろうか? 真のスピリチュアルの権威は、「正しい答え」を知っていることに基づくものだろうか、それとも、何も知らないという開かれたスペースを信頼することに関係するものだろうか? 本当の確かさは、記憶と知識の蓄積に頼るものだろうか、それとも、〈ここ・今〉に完全に実在していて気づいているという空 (そして活動性) を信頼しているものだろうか?

自由意志は無いとか自己は無いと言うとき、それがどこから来ているのか問うてみることができるだろうか? この瞬間の直接的な洞察からこういうことを言っているのだろうか、それとも、記憶や習慣や信念からしゃべっているのだろうか? この瞬間に新鮮でオープンな目で見ているのだろうか、それとも、他人の言葉を繰り返したり、以前自分が何度も言ったことを繰り返したりするような、一種の反復作用に従っているだけなのだろうか?

それから、もし誰かが、私たちの主張を否定するようなことを言ったら、何が起こるだろうか? 進んでその人の言うことに新たに耳を傾けて確認してみるだろうか、それともそのことについては既に門戸を閉ざしてしまっているだろうか?

たった今、自己は存在しているだろうか? 自由意志はあるだろうか?

思考と記憶がすぐに「正しい答え」を与えてくれて、その答えを防御する用意をするだろうか? それともこの質問は、知っておらず、好奇心があり、率直に聴くという広大な空間を開くだろうか?

知らないままであり続けることは可能だろうか? 何を見つけるか何も知らずに、新鮮な目で見て聴くということは可能だろうか? 驚かされる可能性に開かれているだろうか?

この現在起こっていること、この気づいている存在、この時間と空間を超えた〈ここ・今〉、この聴いていて見ていて感じていて呼吸をしていて気づいていて質問していて在るものはなんだろうか? これは何だろう? 思考や意図や行為や決定はどのように現れるのだろうか? 思考や行為の源は何だろうか? 思考や行為が始まるのはどこだろうか? 何がそれを動かしているのだろうか? 自分の外に源があるのだろうか? 自分以外に? 自分の内部だろうか? 「自分」とは何だろう? 「自分」はどこで始まりどこで終わるのだろう? 呼吸すること、クルマの音を聴くこと、このような質問をすることの間に分離はあるだろうか、それとも、それらはすべて分離していないできごとなのだろうか?

過去に蓄積した答えをすべて捨て、たった今ただオープンになって、これらの質問が静寂の中で展開するのに任せることはできるだろうか? 問題を絞り込んで答えに手を伸ばすかわりに、ただくつろいで、質問がすべての答えを解消するのに任せることは可能だろうか?

もし、この瞬間に、私たちの持っているすべての答え、観点、イデオロギー、信念が消えたとしたら、何が残るだろうか?

私たちは実際、このスピリチュアルな、あるいは非二元のことに関わる中で、何をしているのだろうか? 安心や安全を求めているのだろうか? 原理主義的なキリスト教やイスラム教に他の人たちが求めているような何かの、流行バージョンのようなものを求めているのだろうか? ある程度までは、少なくともいくぶんかは、安心や安全は私たち皆が求めているものであり、それは自然なことだ。こうしたことを求めるのは生き残りのための機能なのだ。ただ、そのうち、自分たちが安心や安全をあらゆる誤った場所で探してしまう習慣があることに気づき始める。一時的には、たばこや一皿のアイスクリームから安心感を得るかもしれない。新しい恋愛や、自分の本に対する好意的なレビューから、一時的な安全の感覚を得るかもしれない。だが、こうしたことは持続しない。気がつけば、肺がんや糖尿病になっていたり、新しい恋愛対象が他の人のもとへと去ってしまったり、別の人が本に関する容赦のない否定的なレビューをすぐに書いたかもしれない。一皿のアイスクリームや、本の好意的なレビューを楽しむことに悪いことは何もない。だが、欲望とそれを引き起こすもののメカニズム全体に気づいていることはできるだろうか? 私たちが本当に求めているものはなんだろうか? 何から逃げようとしているのだろうか? 私たちが習慣的に欲しがって追いかけるものは、望んだような安心と安全を実際に与えてくれるだろうか? 自分のものにした信念は本当に満足をもたらしただろうか、あるいは、そうした信念には、常にその影の双子である疑いがくっついているのではないだろうか?

答えが生じたとき、その答えにしがみつこうとする傾向があることが認識できるだろうか? 何か確かなもの、何かしがみつけるもの、何かあてにできるものを自分がどのように欲しがるか、気づくことはできるだろうか? 自分がどのように独善的になり、門戸を閉ざし、自分の見解と同一化するかということに気づいているだろうか? 私たちが見つけた答えのうち、本当に確かであてになるものは何かあるだろうか? 今ここにおいて、何が本当だろうか? 信念を超えたところ、疑いを超えたところには何があるだろう?

この瞬間、自由意志やなんらかの自由はあるだろうか?

もしマインドが「答え」と共に現れるか、もしくは答えを探しにどこかに行ってしまったとしたら、そうした心の活動に気づいて、できればそのままにしておくことは可能だろうか? ここで、今、気づいていることは可能だろうか? 何かをつかむことも拒否することもなく、何かを信じることもなく、どんなことをもそれが何か知らないまま、この宇宙がどうなっているか、宇宙は何か、なぜ宇宙が存在するのかということに関して何の考えも持たずに。

自分が「答え」を知っていると考えているとき、どんな感じがするだろうか? 答えを探し求めたり、こうしたことについて考えたり、思考の回転車の上をよじ登り続けたり、「正しい答え」を求めてインターネットや本棚を必死に探し回したりするのはどんな感じだろうか? ただ知らないでいて、ただこの瞬間起こっていることとしてくつろぎ、すべてがただあるように展開することに気づいているのはどんな感じだろうか?

オープンで自由で解き放たれた気づきがあるときには、新しくて純粋に創造的な何かが現れる空間が生じる。これを自由と呼ぶこともできる。だが、このことに呼び名をつけることには注意したほうがいい。言葉はマインドを開くこともできるが、マインドを閉ざすこともできる。言葉やストーリーが私たちを起こす時、言葉やストーリーが私たちをある種の催眠昏睡状態に陥らせる時、それに気づくようになることは可能だろうか? オープンで気づいていて聴いている実在である〈ここ・今〉から現れる言葉と、習慣や信念、そして安心と安全を求める私たちの欲求から現れる言葉との違いに気づくことはできるだろうか? 私たちは、生きている場所、今ある場所から話しているだろうか、それとも、古い考えを機械的に繰り返しているだろうか? そうした考えがかつては真実であり有効であったとしても、今やそれは負担以外のなにものでもないかもしれない。

何かが本来のもの、本物、生きた状態であるとしたら、それはなぜだろうか? それは、新しい言葉や新しい表現を絶えず見つけるということに関係するのだろうか? それとも、この瞬間にその言葉がどこから来たのかということに関係するのだろうか? 同じ言葉がある文脈では真実であり、別の文脈では偽りだということはありえるだろうか?

もしあなたの頭の中の声が「こういう質問は二元的だ。なぜなら、すべては一なるものから現れ、すべては一なるものであり、一なるものの他には何もないから」とたった今主張していたら、私はたった今、こう問うことをすすめたい。それは本当だろうか? それとも、それはよくある退屈な考えだろうか?

たった今、何が現実だろうか?

この質問が尋ねられたとき、何が起こるだろうか?

「一なるもの」ですら投げ捨てたとき、何が残るだろう?

== 翻訳は以上 ==

信念との同一化については、本当に耳が痛い。非二元の考えを知って以来、これまで夢中だったスピリチュアルのなんやかんやが全部くだらないものに感じられ、この文章にあるように実際に多くの本を投げ捨てた。

それだけでなく、非二元の概念(自分が理解した限りにおいてのそれ)に合わないことを言う人たちから一気に離れた。それまで親しかった友人たちとの交わりは数ヶ月でなくなった。いま振り返れば、その信念が自分に何をもたらしたかは明白だが、それが見えないほど信念に夢中になっていた。

今でも多かれ少なかれその傾向は続いている。だが、信念と同一化することによって、自分の身体感覚がどうなるか、自分の声のトーンがどうなるか、窓の外の緑や空をどう見ているか(というかそもそも目を向けているか)、ということに気づく機会がたまにある。

そんなとき、言葉を探さなくてもいい自由の感覚に気づく。世界が優しくなる。

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信念をこえて ジョーン・トリフソン」への1件のフィードバック

  1. うわあ、これ怖いですね。
    天の邪鬼なので否定からはいるようにして
    人の言葉を拠り所にする事は避けているつもりですが
    たまにただの気付きが信念に変わって行くのを目の当たりにして
    すぐ固めたがる、安定させたがる自己を発見します。
    ただ移ろって行くのに耐えられず足場を持とうとする自分を発見します。
    朝から目の覚める強烈な文章でした。
    ありがとうございます。

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