身体 ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンは今月、Nothing to Graspという新刊を出した。コンパクトにまとまっていて、分かりやすい表現に満ちている。ミーティングの質疑応答をまとめた本ではなく、読む前はどうかなと思ったが、とても面白かった。リック・リンチツのNo You and No Meを彷彿とさせるような明快さだ。ジョーンが毎回色彩が異なる本を出しているのは、とても興味深い。

ジョーンのウェブサイト (joantollifson.com) にある文章を、引き続きいくつか翻訳して紹介していきたい。

Body / No-Body

== 以下、翻訳 ==

あるのは感覚、知覚、記憶、観念作用の絶え間ない流れだけだ。身体は抽象概念であって、多様性の中に統一性を見出そうとする私たちの傾向によって創り出されたものだ。
ニサルガダッタ・マハラジ

私たち誰もが探し求めている生の「秘密」とは、単にこういうことだ。いまの瞬間の身体の経験にくつろぐこと。
ジョーコー・ベック

波は、水であろうとして波であることを止める必要はない。
ティク・ナット・ハン

気づきをもって身体に意識を向け、身体を純粋に感覚として探究することによって、「身体」というものが存在していない(頭の中の概念、思考による抽象概念としてのみ存在する)ということが分かる。そして、宇宙全体が自分の身体であるということに気づく。境界というものは、実際はない。

この認識は、神秘的なものでも、風変わりなものでもない。むしろ、このことはあまりに単純で、直接的で、明白で、常に存在しているために、私たちはこれを見過ごしてしまうことが多い。それは私たちの意識が、ありのままの存在に上書きされた、観念的な思考がつくりだす神出鬼没の抽象概念の方に夢中になっているからだ。

〈ここ・今〉の実際の経験は、変化し続ける感覚以外のなにものでもない。「身体」というのは概念であり、ひとつの思考構造だ。

しばらく、十分注意しながら、「あなたの内側」がどの地点から「あなたの外側」に変わるのか、調べてみてほしい。どんなことが分かるだろうか? あなたの見ている世界は、あなたの内側にあるのだろうか、あなたの外側になるのだろうか? あなたの息が内側から外側に出るのはどの地点だろうか? その境界はどこにあるだろう? 内側と外側を分ける線を見つけることができるだろうか?

現代物理学の成果によって、原子よりも小さいレベルにおいては、個体性や実体がなく、境界もないことを私たちは知っている。そしてこのことは、私たちが概念や観念ではなく、感覚やありのままの知覚に注意を向けるとき、たった今私たちが実際に現在の瞬間に経験していることだ。

だが、私たちは実際の経験を無視し、概念的な上書きの方に注意を向けがちだ。地図と実際の土地を取り違えているのだ。

エコロジーでは、すべてのものが他のすべてのものに依存していて、全体を変えることなしに一部分だけを取り除くことはできないとされ、私たちはそれを知っている。だが、私たちはこのことをあっさり見落としてしまい、かわりに概念的なイメージを採用する。私たちは独立した部品(「自分」を含めて)で構成されている世界を想像し、その部品をバラバラにして再構成することができるのだと考える。そして「私はいま他のどこかにいることもできたし、その方がよかっただろう」と想像する。でも、時間と空間を分けることはできないし、「自分」を「この瞬間、全く今ある通りのありかた」から分けることもできない。

いまの瞬間の感覚的な経験、身体の現実に意識を向けると、身体と自己は完全に消える。つまり、分離していて永続するような何かという幻が消え、そうした何かの間にある架空の境界が消える。残るのは、この何の継ぎ目もなくすべてを包含する無限だけだ。

本当の身体 (身体は全く無い) は、解剖用の死体でも、解剖学の教科書の図でもない。本当の身体は、生きていて、流れていて、動いている。経験から言えば、身体とは変化し続ける感覚以外のなにものでもない。そして実際のところ、身体とは、血液が循環し、細胞が分裂し、神経が興奮し、心臓が鼓動し、肺が拡張して収縮し、食物が取り入れられ分解され、分配されたり排出されたりする、動き続けるプロセスだ。身体は常に環境とやりとりをし、肌は浸透性で呼吸していて、剥がれ落ちて再生し、息は入ってきて出ていく。あなたの身体は10年前と同じ身体ではないし、10日前とも同じではないし、あなたがこの段落を読み始めた数十秒前の身体とでさえ同じではない。すべてが変わっている。ホルモンも、神経化学も。宇宙全体が動いたのだ。生とは、絶え間のない変化に他ならない。

「聖なる現実を私にお見せください」と、かつて僧が師に頼んだ。
「いま動いたところだ!」と師は答えた。

この生き生きとしたものは留まっていることがない。外科の看護師である私の友人が、インターンが生きている身体に初めてメスを入れるときのショックについて語っていた。インターンは解剖学を学び、死体を切開してきた。だが、いま彼らは生きている生命体にメスを入れ、突然すべてはツルツルしていて、脈動し、動いていて、血が噴き出し、すべてが動いている。本当の生命だ。止まっているものは何もない。混乱だ。でも、すべては完全な調和をもってまとまっているのだ。顕微鏡レベルから天文学的レベルまで。宇宙は完璧な秩序と知性をもって機能している。制限された視点からすると、摩擦や混乱があるように見える時でさえ。

「あなたはあなたの身体ではない」という指摘を私たちは時々耳にするが、これは身体を否定するとか無視することを促しているわけではなく、身体が空中に消えていくというようなある種の神秘的なことを示しているわけでもない。この言葉は、すべての流動性、一体性、無境界性を指し示しているにすぎない。

非常に遠くまでズームアウトすれば、この惑星は小さな光の点にすぎない。もっとズームアウトすれば完全に消えてしまうだろう。逆に近くにズームインすると、原子より小さいレベルでは、見えるのはほとんど空の空間であり、固定したものは何もない。どちらの場合も、ズームインしてもズームアウトしても、私たちが知っているような世界、個人的あるいは世界的なドラマで満ちている世界は存在していない。この認識によって、世界的なドラマや個人的なドラマを、全体像の中で見ることができるようになる。これは、普通の人生を無視するということではなく、普通の人生といったものをより大きな文脈の中で見て、それに関する観念や信念をあまり深刻にとらえないということだ。

それから、注意のレンズがズームインするときもズームアウトするときも、決して動かない何か、位置を持たず、ここに無いということが決してない直接性があるということに気づくかもしれない。この実在性は知覚したり掴んだりすることができる対象物ではない。それは知覚することそのものであり、気づいていることであり、分割することができないできごと、現れることも消えることも同じように留まることも決してない本質なのだ。

このシンプルな存在の中には、「あなた」もなく「身体」もなく「世界」もなく「解決すべき問題」もない。思考が感覚にラベルをつけてストーリーを語り始めない限りは。そしてそのストーリーも、空が形づくっている一時的な形のひとつにすぎず、それは鳥の歌や車の轟音とまったく同じようなものだ。

== 翻訳は以上 ==

『「自分」を「この瞬間、全く今ある通りのありかた」から分けることもできない。』とは、すごく絶望的な言葉にも聞こえるし、愛に満ちた言葉にも聞こえる。ドキッとした。

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身体 ジョーン・トリフソン」への2件のフィードバック

  1. いつも楽しく拝読させて頂いてます。
    僕も3月ごろに目覚めらしきものを体験し
    しばらくは至福の中でふわふわしてたんですが(笑)
    色々気付きを言葉にしていくと
    『「自分」を「この瞬間、全く今ある通りのありかた」から分けることもできない。』
    まさにこの感覚にいきついて、絶望と共に解放感を味わいました。
    空の一部、海の一部が分離したつもりで仮初めの境界を作り
    それを「私」と呼び何かを思い、何か行動をしても結局は全体の移ろいの現われでしかないんだなと…。
    そうであるから責任や努力、「すること」から解放されると共に結果にも原因にも「個の私」はなれない、「つまんねwww」と両方の感覚があります。
    でもこの存在の軽さは楽ですけどね…。

  2. 豆腐さん、コメントどうもありがとうございます。

    「つまんねwww」とは、なんだかずいぶん楽しそうですね。解放感が伝わってきて、こちらも楽しくなります。

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