他人の領域

 
先週、バイロン・ケイティのワークの合宿 (C+F研究所の主催) に参加した。伊豆で二泊三日の合宿だった。

多くを学んだ気がする。そして、楽しんだ。ここ二年ほどは、「何かをすることができる人はいない」「誰も存在していない」「ものごとはあるようにあるだけ。コントロールはない」というような非二元の教えに没頭していた。だから、いわゆるワーク系のことは一切しなかった。する必要はないと考えていた。

でも、いま振り返れば、「ワークはしない!」ということを一生懸命していたようにも感じる。

ともかく、伊豆で八月に合宿があると聞いたとき、行ってみようという気が自然に起こった。ワークで何かを解決しようとしたわけではないから、三年ほど前、一時的にワークに取り組んでいた時とは、少し感覚が違ったように思う。

終わってみて、今印象的に感じているのは「他人の領域」という言葉だ。

バイロン・ケイティのワークでは、「彼女は僕に〜を押し付けるべきではない」というような、他人に対する自分の考えを主に扱う。四つの質問と置き換えという極めてシンプルな方法を使って探究する。その結果、「彼あるいは彼女はこうすべきだ」といった、自分のコントロールを超えた領域に対する自分の考えが、自分に何をもたらしているかということに、気がつくことになる。

これを繰り返していると、「他人の領域」にあることがらに対する反応が、いかに自分の多くを占めているのか、なんとなく分かってくる。すると、頭の中で「他人の領域」に侵入したときに、そのことに多少気づきやすくなる。

そして、「他人の領域」に関して不思議だなと思ったのは、「他人の領域」に頭をつっこまないでいると、「他人の領域」が自分の外にあって自分と対立している感じが弱くなり、「他人」が概念的なものであることを止め、興味深い何かになるというということだ。

「他人の領域」を尊重することで、「他人の領域」と「自分の領域」の境界が逆にぼやけ、「他人の領域」が自分と親しい何かになるという感覚だ。もっと言えば、「他人の領域」というものそれ自体が意味をなさなくなる可能性も感じた。

ワークを通してもうひとつ感じたのが、解決と探究の違いだ。

解決しようとするとき、自分は解決すべき問題に囲まれた世界にいる。その時自分は何かを解決しようとする人になる。そうなると、見ることが困難になり、思考、概念の世界、ストーリーの世界に巻き込まれることになる。

そして、多くの場合、その思考ストーリーに巻き込まれないように、今ここにいようとか、ありのままを見ようとかして、頑張る。つまり、またそれを解決しようとする。

だが、ストーリーの世界は、ストーリーが出てくること自体を解決しようとしなければ、それはそれで実は面白い世界なのだ。と、解決するのではなくて、ただ興味をもってストーリーを見てみるという探究モードに入ることが、今回の合宿で起こった。

狙っていたわけではないのにそれが起こったのは、多分講師のティムさんとよし子さんのオープンな意識の影響、それと海沿いをただ歩くとか、食事そのものを味わう、といった今回のプラクティスの影響かなと思う。

と、癖でいろいろ分析してしまうのだが、それは置いておくとしても、波の音と蝉の声に包まれ、地元の食材を使ったクリエイティブで優しい味の食事を楽しみ、参加者の人たちと豊かな時間を分かち合えたということで、素晴らしい時間だった。

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