リチャード・シルベスターのインタビュー (2009年)

 
リチャード・シルベスターが2009年にConscious Mind EventsというサイトのTom Carter氏から受けたインタビューを、翻訳して紹介したい。

インタビュアーは、アセンションとか意識の進化といったニューエイジ系の興味を持っている人のようで、インタビューが咬み合っていない様が面白い。リチャードのイライラが伝わってくるようだ。

INTERVIEW WITH CONSCIOUSMINDEVENTS.COM

== 以下、インタビュー ==

Q. 非二元とは何かを説明してもらえますか?

A. 非二元というのは、あるのは一体性 (ワンネス) だけなのだという認識を言い表したものです。あるいは、そのことを言い表す試みのことであると言った方がいいかもしれません。というのは、それを実際に言い表すことは不可能だからです。一体性の認識は、自分が人間であるという感覚、自分というものは分離した世界の中でいろいろな選択をしながら人生を生きている個人であるという感覚が落ちたとき、初めて起こります。これが起こると、自己が空っぽであることが分かり、個人というのは意識の放射物であることが分かり、「あなた」や「私」というのはその中で全てが生じる光なのだということが分かります。見かけ上の個人と一体性との間の関係、あるいは見かけ上の個人と〈存在〉そのものとの関係は、波と大海の関係と同じです。波は、大海が波をしているものであり、あなたと私は、一体性が「人間している」ものです。

このことは、アドヴァイタから禅まで、多くのスピリチュアルの流派で言われてきたことなのですが、そのどれかに属しているわけではありません。

一体性の認識は、それが起こるか、起こらないかのどちらかです。見せかけの自己ができるどんなことも、どんな訓練であっても、どんなスピリチュアルな書物を読んでも、自身が見せかけであるという認識を可能にするものはありません。私は何かを薦めるということはしないのですが、でももしするとしたら、この計り知れない絶望を考えて、リラックスすることを薦めるでしょう。これがそれです。これが完全な状態です。これはすでに約束の地なんです。輪廻と涅槃は一つのものなのですから、私たちはリラックスしてそれを楽しんだほうがよさそうです。

Q. あなたはどのようにこの観点あるいは覚醒に到達したのですか?

A. これは観点ではありません。観点というものは、マインドから生じる概念です。マインドは、非二元性を認識したり理解したりすることが決してできません。非二元性についてのいろいろな概念なら、マインドは理解したり誤解したりはするかもしれませんが。

覚醒や解放は、それが認識されるか、されないかのどちらかです。ここではそれが認識されていますが、そのことは重要ではありません。いずれにしても、目覚めていることと眠っていることは同じことです。ただ、眠っている間はそのことが分かりません。まったくの逆説なんですが、解放などというものはありませんが、解放が起こらない限り、解放というものは無いということを知ることができないのです。こうした逆説に関しては、マインドは破綻しがちです。

Q. この認識は、あなたの人生において好ましい影響を及ぼしましたか?

A. いえ。というのは、私には人生というものがないからです。というより、誰にも人生はありません。ただ、解放が認識されるまでは、個人というものが存在していて、その個人には人生があってその人生に責任を負っているかのように感じられるでしょう。

そうは言っても、解放というのは必ずしも何かを意味してはいないわけですが、一体性が認識されるとき、一定の変化が生じる傾向というものはあります。たとえば、神経症的な感覚の幾らかがなくなり、安らぎと落ち着きが増すかもしれません。時間の本質が見抜かれると、おそらく過去についての罪悪感や後悔が少なくなるでしょうし、未来についての不安も少なくなるでしょう。意味や目的や希望というものが消えることも、大きな恩恵となりえますし、探求が終わるということもそうでしょう。ですから、このキャラクターは目覚めていることを好んでいます。

Q. 人々は、努力することによって非二元のことを理解することはできるでしょうか。それとも、覚醒ということが起こるか、起こらないかということになるのでしょうか?

A. 非二元に関して学ぶことは可能ですが、学ぶことによって目覚めることはできません。学ぶことはマインドの機能であり、マインドが目覚めの助けになることはありません。マインドはそれができると熱心に信じているわけですが。それがマインドの性質です。

Q. 『The Book of No One』の中で「存在している人は誰もいない」とありますが、これは何を説明しているのですか? 私たちは物事が起こるのをただ経験しているけれども、物事を全くコントロールしていないという意味ですか? あたかもお互いを通して神の心を見ているかのように。

Q. 「存在している人は誰もいない」というのは、哲学的な主張ではありません。これは、解放のなかで認識されることをそのまま言い表しているだけのものです。

私たちが物事が起こるのを経験しているのではありません。なぜなら、「私たち」は存在していないからです。物事は起こります。物事が「私」という人間に起こっているという感覚も、起こる物事のうちの一つです。この感覚は、解放が認識されるときに消えます。

このメッセージは、私たちが物事をコントロールしていないということを言っているのだと、しばしば誤解されます。私はそのようなことを全く言っていません。言っているのは、人間が存在していないからコントロールというものも無いのだということです。完全に違うことを言っているです。

一体性のことを、神が自身を見ているのだと表現するのであれば、それは結構な喩えだと思います。ですが、私自身はそのような言い方は避けます。というのは、「神」という言葉を使うことで、西洋人のマインドではあまりに多くの観念が飛び交うことになるからです。これは、西洋では神のことを人格をもった創造者として考えがちだからです。東洋では、神について使われる言葉は、非二元について使われる言葉にもっと近いのですが。

Q. 死についてのあなたの見識を教えてください。死んだら私たちに何が起こるのでしょうか? 何らかのかたちで存在し続けるのでしょうか?

A. 死というものは、分離という夢の終わりです。解放のときと死のとき(両方同じことですが)、人間は誰も存在しておらず、あるのは一体性だけだということが認識されます。

死んでも私たちに何も起こりませんが、それで問題ありません。というのは、今も私たちには何も起こっていないからです。「私たち」は存在していません。

私たちはたった今も存在し続けてはいませんし、死んだ後にも存在し続けません。あるのは〈存在〉だけです。

Q. 非二元性が認識されると、自分の選択というものは問題であり続けるでしょうか。良くあるための選択や、悪くなってしまう選択です。良いと悪いの定義にもよりますが。

A. 選択できる人は誰も存在していません。選択をしたことがあるような人はこれまでに誰も存在したことはありません。人はあらゆる種類の選択が違いを生むと感じるかもしれませんし、自分がいい人であるとか悪い人であるといったことをいろいろなやり方で考えるかもしれません。ですが、人が落ちるとき、解放のなかで選択というものがないということが認識されます。

Q. もしあなたが殺人者で、非二元性に覚醒したとしたら、あなたは殺人者であり続けるでしょうか? 覚醒の前にあなたが親切で思いやりのある人だったとしたら、覚醒の後もそうであり続けるでしょうか?

A. 法則は何もないのです。非二元性は何も除外しません。私たちが何かを除外したとたんに、二元性の中に戻ります。こちらには非二元性があって、非二元性から除外したものがあちらにある、という二元性です。

とは言え、殺人をしようという衝動がもし神経症的あるいは精神病質の傾向から生じるものであれば、一体性の認識によってそうした衝動がなくなることは大いにありえます。そして、親切で思いやりのある人でいたいという衝動が、必要とされたいとか好かれたいというような強迫的で神経症的な要請から生じたものであれば、それはよく共依存と呼ばれますが、解放によってそうした衝動もなくなるかもしれません。

== インタビューは以上 00

「解放などというものはありませんが、解放が起こらない限り、解放というものは無いということを知ることができないのです」とは、なんと興味深い逆説だろう。こういうことを聞くと、また探求のエネルギーが戻ってくるのを感じる。

広告

リチャード・シルベスターのインタビュー (2009年)」への10件のフィードバック

  1. こんにちは。

    ”殺人をしようという衝動がもし神経症的あるいは精神病質の傾向から生じるものであれば、一体性の認識によってそうした衝動がなくなることは大いにありえます。そして、親切で思いやりのある人でいたいという衝動が、必要とされたいとか好かれたいというような強迫的で神経症的な要請から生じたものであれば、それはよく共依存と呼ばれますが、解放によってそうした衝動もなくなるかもしれません。”

    ここがうまく言えませんが自分的にはツボでした。

  2. 素人の質問ですが自殺するのも夢が終わるだけなので問題なしなのでしょうか?

  3. 素人の考えなので適当に聞き流してほしいのですが、問題あるかどうかは問題があるという思考にとってのみ問題になると思うので、自殺(そもそも自分もおらず、生まれてもおらず、死ぬこともなく、今があるだけだとしたら、自殺は不可能にも思えますが)ということが起こったとして、それ自体がただちに問題ということはないような気がします。

    問題なしというわけではなく、問題と思っているのは誰か、何か、という話のように思います。

    いろいろなミーティングで、よくホロコーストや虐待について質問する人がいるのですが(善悪も意味もないとしたら、あなたはホロコーストを肯定しているのですか?等)、ホロコーストはいまどこにありますか? あなたの思考 (より正確に言えば、あなたが自分のものと思って自分と同一化している思考) の中にだけあるのではないですか?という感じで、たいてい返されます。

    バイロン・ケイティではないですが、「その考えがないとき、あなたは誰ですか?」ということかなと思います。

  4. 大変興味深く読ませていただいています。

    たびたび素人質問で申し訳ないのですが、生きている間は幻想で死んだら真我と一体になるという訳ではないのですか?

    「私」は幻想だというのはなんとなく理解できるのですが、「真我」だけが真実ですべては外部世界も含め幻想であるというのは理解できません。

    人類が滅亡しようが宇宙は存在しているように思えます。

    お勧め記事がございましたらお教えてください。

    余計な理論は考えず「私は誰か?」だけだと分かっているつもりですが、
    そう仰らずによろしくお願いします。

  5. ジョーン・トリフソンとリチャード・シルベスターの一連の記事をおすすめします。

    思考は真我、宇宙、人類、死後といったいろいろな概念をめぐって現れては消えていきますが、そうした思考の働きについて、彼らの文章は何度も説明しているように思います。

  6. いつも親切にご返事頂きありがとうございます。

    元々テーラワーダ仏教に興味があったのですが、最近ラマナ・マハルシにはまりこのサイトにたどり着きました。

    最近のアドヴァイタ系の先生はシャンカラの教義など気にしないのでしょうか?
    シャンカラは唯識を非難したと思いますが、「気づきの扉、ティモシー・フリーク」などを読んでいると唯識のようだなと思いました。

    ニサルガダッタ・マハラジはスモーカーで怒りっぽかったとどこかで読みましたが、覚醒してタバコも止めれないのは不思議です。
    もし気づきがあれば吸いたい気持ちや怒りは消えると思います。

    どのように理解すればよろしいのでしょうか?

  7. シャンカラに限らず、アドヴァイタや禅の古くから表現を引用する人たちは多くいると感じています。

    やはり、歴史を通して生き残ってきた表現は、本来言い表せないものを指し示したものの中では、優れたものが多いということなのかなと思います。

    ただし、唯識かどうか、「正統的」なアドヴァイタかどうか、というようなラベル付けについては、むしろそれをしたがるマインドや思考の性質というところに焦点を当てる人たちが多いような気がします。

    ニサルガダッタのタバコは面白いですね。僕自身はニサルガダッタがすぐに怒り出す煙草屋だったことを祝福と感じます。悟ったらこのような行動をするはずだ、という思考がただの一つの思考だということを示すには最適の教えではないでしょうか。

  8. いつもご返事ありがとうございます。

    ヒロ様のSANDカンファレンス記事で怪しい先生が出てきて参加者からもクレームがあった話がありましたが行動や言動で判断しないのでしたら本物とそうでない人の判断の仕方はどのようになさっているのでしょうか?

    教えていただけると嬉しいです。

  9. こんにちは。

    判断の仕方をどうする、というようには考えたことはない気がします。判断とかジャッジはいつも勝手に出てきて、またその判断やジャッジに対する判断やジャッジも出てきたりもします。

    本物かどうか、というのは興味深い点ではあるのですが、本物か偽物かということは、思考の中にしか存在できないというふうに思います。自分の求めていることに関して、それを与えてくれる人が本物、与えてくれない人は偽物というラベルが貼られるという面があるのかなという気がします。その意味では、本物かどうかという目で世界を見ていることに気がついたら(滅多に自覚できませんが)、自分が何を欲しがっているのか気がつくチャンスなのかもしれませんね。

  10. いつもご親切に御返事を頂きありがとうございます。
    お忙しくて大変かもしれませんがこれからもインタビューなどの翻訳を楽しみにしております。

コメントは受け付けていません。