ずっとある本

 
こどもの学校が夏休みに入って以来、海に山にプールにと活動しまくっている。そのせいか探求熱が低下し、何かを求めるような感じがだいぶなくなっている気がする。

あるいは、それはジョーン・トリフソンの文章を何度も読んだ影響かもしれないが、それはどっちでもいい。桃の味が世界のすべてになり、日差しと蝉の声が一体となって全身を貫くとき、いろいろなことが意味を失う気がする。

そんなわけで、進んでいるべき本の翻訳も停止し、紹介の許可をもらっているエッセイの翻訳も停止し、頭があまり動作しないモードになっている。

呆けたまま本棚を眺めると、あまり興味がないような本がいつの間にか増えている。また処分だ。一時は壁が本で埋まっていたこともあったが、数年前に100冊程度にした。その後も、だいたいそのプラス50冊程度で収まっている。

ほとんどの本がここ数年で買ったものだが、中には長いこと置いてある本もある。その中でも愛着 (執着?) のある本について書いてみたい。

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『メイベル男爵のバックパッキング教書』

書棚の中で最も古くからある本。高校生の時に書店で見つけ、衝動買いした。当時バイクに夢中になっていたが、この本の影響で歩く派に転向した。バックパッキングの自由で解放的で自律的な雰囲気が、洗練されていないイラストで紹介されていて、読むだけで楽しくなる本。

『ビー・ヒア・ナウ ― 心の扉をひらく本』

60年代の対抗文化のバイブルとも言われていたらしい本。大学時代に買った。ビートルズ経由で超越瞑想やヒッピーのことを知り、その流れで興味を持った。独特なイラストとデザイン、おかしなエピソードの数々、意味不明な表現の羅列など、強烈な印象。時代の気分がありありと伝わってくる。

『聖老人 ― 百姓・詩人・信仰者として』

山尾三省さんの中では最も好きな本。部族時代の話、インドやネパールの旅の話、父親としての迷いや歓び、ラーマクリシュナの紹介など、盛りだくさん。その盛りだくさんの底を流れる一貫した静かな眼差しが印象的。

『にっぽんコミューン』

学生の頃、共同体、コミューンというものに興味を持った。この本は、70年代の後半のアサヒグラフでの連載をまとめたもの。日本のコミューンや宗教的な生活共同体を紹介している。率直に訪問時の印象が書かれていて貴重。宗教を中心としたもの以外、現在ではあまり残っていない気もする。

『地球感覚、』

プラブッダ (星川淳) 氏のアメリカ時代、サニヤシン時代の話などが、繊細な感じで率直に書き綴られている。同時に、エコロジーや適正技術関係の話も、かなり早すぎという感じで紹介されている。装丁が美しすぎて処分できない本。

『自我の終焉』

J. クリシュナムルティの本は何冊か読んだが、唯一保有し続けている本。学生時代に読み、全然分からなかったのだが「何かとても重要なことが書いてある」という気がして、捨てられなかった。最近になって読みなおしているが、どのページを開いてもどきっとする言葉にあふれている。ただし「自我の終焉」という邦題はミスリーディング。

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以上、並べてみると、似たような傾向の本であることが分かった。ビジネスに夢中になっていた30代、こういう本には10年くらい触ることもなかった。が、今読んでみると興味深いものばかりで、面白いなと思う。

同時に、音楽も、一時はクラシックや静かなピアノ曲ばかり聴いていたが、最近は中学から大学にかけて聴いていたようなクラシックロックに戻っている。妙なことだ。

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