真実とは何か? ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンのウェブサイト (joantollifson.com) にある文章のいくつかを翻訳して紹介しているが、もうひとつ。快く翻訳を許可してくれたジョーンにお礼を言いたい。 (と言っても日本語は読んでいないだろうが)

What Is Truth?

== 以下、翻訳 ==

真実とは何か?

真実はシンプルだ。真実は、何もしなくても、つねに最初から現実としてある。真実とは、まさに今の瞬間に経験していること、そのままだ。この変化し続け、あり続け、つねに〈ここ・今〉にあるため始めも終わりもない出来事、それが真実なのだ。

思考するマインドが、この説明することのできない出来事の意味を理解しようとし、概念的に把握しようとするとき、見かけの上で複雑さが生じる。こうした概念的な思考は、ある程度までは、実用的な意味では必要だ。概念的な思考は、実践的にはとても役立つ。それが生み出す概念的な像が相対的には真実であっても、絶対的な意味で真実であることは決してない、ということを私たちが忘れないかぎりは。たとえば、「地球は太陽の周囲を回る惑星だ」というのは、相対的な真実だ。これは実用的な意味で役に立つ。だが、絶対的な意味でいえば、「地球」とか「太陽」というようなものは存在していない。というのは、いずれもが、実際には変化し続け、思考では把握できない、継ぎ目のない流れであるものに関する、抽象概念だからだ。

〈全体性〉や、存在の背景や、現実の性質といったものを概念として理解しようとすると、必ず挫折して混乱することになる。現実に関する概念的な描写というものは、それがどんなものであっても、常に疑う余地がある。そうした概念的な描写によって私たちの真実に対する強い切望が満たされることはない。

そうした心からの強い切望は、すべての意味を理解しようとする企てが落ちたときに、満たされる。もちろん、それが落ちたとしても、日常生活において実用的な意味でものごとの意味が理解できなくなるわけではない。ただ、〈全体性〉を捉えようとしたり、存在の背景を把握しようとしたり、現実の性質を解明しようとしたりして努力することがなくなる。そのかわりに、そのものとしてあるということにくつろぐようになる。自分が何かをわかろうとしている時に、そのことを認識する(理解する、感じる)ようになる。そのような認識が起こると、極めて自然にくつろぐことができ、手放すことができるようになる。すべてを理解しようとすることがただ止まるとき、何も理解する必要があることはないことに気づく。実際のところは、どんなことも理解することはできないのだ!

相対的な真実はすべて疑うことができる。一方、絶対的な〈真実〉は、何かから抽出して特定することができるような相対的な何かではないのだ。それは、信じるようなものでもないし、疑うことができるものでもない。そうではなく、〈真実〉とは、〈ここ・今〉、この境界がなく継ぎ目もない、あり続け変化し続ける出来事の、全くのシンプルさと直接性のことだ。これは、私たちが探し求め、いつか見つけることを願うような、何か神秘的なものではない。それよりももっと近いところにあり、もっと親密なものだ。実のところ、探し求めたり、概念的につかもうとすることこそが、それを、失ったり見つけたりすることができるように見える何かに変えてしまうのだ。

私たちが混乱していたり迷っているとしたら、それが、自分が思考にはまっていて、架空の問題を解こうとしていることを示している。正しい理解や完璧な公式を求めていたり、〈真実〉とは何かということが確かでなかったり、あるいは〈真実〉を把握しようとしていたりするなら、それは、実際には思考ではつかめないものを、思考するマインドが概念化しようとしていることを示している。マインドは、どこか「あっち」にあると自分が想像している、ある種の対象物を追いかける。だが、〈ここ・今〉であるこの否定しようがない気づいている存在、この見て聴いて感じる存在、この現在の経験には、何の信念も要らず、それを疑うこともできない。これは明白であり、不可避なのだ。

目覚めるというのは、今ここには無い何かを得るというようなことではない。まさにその観念こそが思い違いなのだ。だから、もし、まだ自分には起こっていないと思っている何か大きな覚醒体験が自分には必要だとか、〈真実〉とは何かを解き明かす必要がある、といった思考に没頭しているとしたら、この瞬間の避けることのできないシンプルさに戻るといい。呼吸の感覚、車の音、空を流れる雲、コンピューターの画面に映っているこの文字、お腹が鳴る音、鳥の鳴き声、紅茶の味、絨毯におちる陽の光。これが〈聖なる現実〉なのだ。

マインドが「そうか。次は? 自分はまだ覚醒していないんだけど」と言っていることに気づいたら、それが思考であることにただ気づくこと。思考はストーリーを語る。ストーリーは虚構だ。まだ目覚めていないとされているその人は、幻影なのだ。(あなたが目覚めていると信じている人たちもまた同じように幻影だ)

どこかに到らないといけないとか、何かを成し遂げないといけないとか、なにものかにならないといけないといった考えは、ただの観念にすぎない。あなたの人生において成し遂げる必要があることは何もない。今あるものが、常に最初からそれ自体を成し遂げていることを除いては。そして、ストーリーの中においてのみ、定義付けたり考えられたりできる何かが起こっている。この瞬間の現実を、概念のなかで捕まえることはできない。だから、この非二元に関することを頭の中で解こうとして、思考の中で迷子になっていることに気がついたら、それが頭の中のルームランナーだったことに気づいて、たった今この瞬間の驚異に、そのままのこれに目覚めてみたらどうだろうか?

ここで指し示されているのは、誰かは経験したけれど他の人たちは経験していない、というような特別な経験ではない。指し示しているのは、腹部の緊張、道路の往来の音、夕食の調理の香りだ。

目覚めた人たち、というのは存在しない。あるのは、境界のない存在であり、それは常にあり続け、変化し続けるもので、避けることができず、存在しないということがないものだ。あなたは、いまあなたがあるようにないことはできない。〈真実〉でないものなど何もないのだ。

経験は現れては消える。経験というものは、本質的に一時的なものであり、考えでつかめるものでもない。生は、恋愛、大虐殺、咲き誇る花々、津波、陽の光、雲、雷雨、ビルに突っ込む飛行機、生まれる赤ちゃん、遠い銀河での爆発、というように私たちが言い表すものとして現れる。考えることによって、継ぎ目のない流れが、見かけの上で分離した部分部分へと分けられる。思考は境界線を引いて、確かで存続する独立した形をつくり出し、それから、自分でつくり出した想像上の物事がお互いにどう関連しているのかを解き明かそうとする。

目覚めるということは、想像上の泡、何かを包んでいるように見える想像上の泡が弾けるようなものだ。弾けた後に残るのは、決して現れることもなく、決して消えることもなく、決して同じものとしてあることもない、無限性だ。あるものすべてである無限性だ。それより他には何も存在しない。

すべての幻影の正体がはっきり見抜かれると、幻影はその力を失う。蜃気楼の湖は砂漠に現れ続けるかもしれないが、私たちが水を求めてその蜃気楼を追いかけることはなくなる。私たちがこの瞬間に慎重に注意を向けるとき、私たちが考えるような形で存在しているものは何もないことを、やがて発見する。存在しているのは全くの流れだけだ。考えることや概念化といったことでさえも、この同じ分割できない流れの動きなのだ。

何も本当には存在していないということを認識するといっても、虚無的な意味で何も存在しないと言っているわけではない! 変化し続ける色や形、感触や香り、音や感覚のこの生気にあふれた生き生きとした様は、たった今ここに、紛れもなく現れている。この現象をどのように説明するか、それがマインドなのか物質なのか、真実なのか幻想なのか、夢なのか現実なのか、ということについて議論することはできる。だが、それがあるということは否定しようがない。

私たちは、概念的な疑問への答え、あるいは、自分がかつて経験したか本で読んだことがある特別な体験についての答えを求めているのだろうか? マインドのそうした掴もうとする動き、探し求める動きは緩むことがあるだろうか? ただここにいるという現実 ― 目が覚めていて、生きていて、気づいていて、聴いていて、見ていて、感じていて、息をしている ― に、気づいていることはできるだろうか? 何についてもそれが何であるのか知らないままで。

道元禅師は何世紀も前にこう書いた。「あなたがまさに今いるところで真理を見つけることができないのならば、どこで真理が見つかるというのか?」

== 翻訳は以上 ==

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