それじゃあ! ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソン (Joan Tollifson) のウェブサイト(joantollifson.com)にある文章を、いくつか追加で翻訳して紹介したい。今日は、Complication and Simplicityというものだ。

== 以下、翻訳 ==

複雑さと単純さ

それほど遠くない昔、ソーシャルメディアも、インターネットも、コンピューターも、ユーチューブも、印刷機も、飛行機も、列車も、車も、高速道路も、電話も、テレビも、ラジオも、ストリーミングメディアも存在しない世界に、人々は生きていた。当時の禅の修行者は、長く続く危険な地域を、一回だけ師と会うために、何ヶ月も歩いていたかもしれない。アドヴァイタの賢者であるニサルガダッタ・マハラジは、彼のグルに数回しか会っていないという。今日では、天文学的な数の教師たちの動画や話や著作物を、オンラインですぐに手に入れることができる。私たちはインターネットでいろいろなサイトを見てまわり、ある人の表現と別の人の表現がどう一致しているのかを確認したりして、何日か費やすこともできる。世界中のいろいろなサットサンに参加し、一人の教師から別の教師へと、飛行機で飛び回ることもできる。飛び回っている間に、携帯端末を使ってまた別の教師の教えにアクセスしながら。

これは、いろいろな意味で素晴らしいことだ。ただ、こうしたことは、簡単にある種の興奮状態へと変わってしまい、そのことで圧倒されたり、混乱したり、中毒にさえなるかもしれない。摂取するものが多すぎるために、まったく何も実際には消化されないということも、大いにありえる。情報が提供されるやり方のまさにその性質によって、いろいろな意味で、不安と欲求不満が強まりがちだ。こうした欲求不満の本質を見抜いて、たった今ここにあるあるがままの単純さにくつろぐ、ということの助けになるのではなく、逆にこうしたことによって、探求と貪欲さが刺激されるのだ。

もちろん、古き良き時代とか、現代生活の興奮状態といったことは、すべてストーリーだ。思考、記憶、想像によって、こういうストーリーが生じる。だから、このようなストーリーをあまり真剣に受け取らないでほしい。邪魔になるようなものは本当は何もないし、邪魔できるような何かも実際は存在していない。ただ、そのことを認識するために、一瞬だけ走り回るのを止めてみることが役に立つかもしれない。だから、この文章を読み終わったら、コンピューターから離れるか、これを読んでいる機器を置いて、一息ついてみることを勧めたい。

少なくとも数分の間、思考のない気づきとしてただあり、何もせず、ただ存在するということをしてみてほしい。これが、あなたがいないではいられないものであり、あなたが常に最初からそうであった、無努力で不可避なできごとであり、何も継ぎ目もなく分けることのできない一つの全体としてすべてを含む〈ここ・今〉で生じていることだ。何が生じようと、それはそのままにして、それに対し何か特別なことをしようとも、しないようにしようともしないこと。呼吸、通るクルマの音や鳥の声、身体に感じられる感覚、そうしたものすべてはそのままにさせておけばいい。思考の流れに巻き込まれていることに気がついたら、もし出来たらでいいが、思考が消えていくのに任せ、今の瞬間の、この単純でありのままの明白な経験に戻ろう。何かを達成しようとか、何かを解明しようとか、そういうことをしているのではない。ただ単に、このすべてを含む〈ここ・今〉として存在し、何が生じてもそれに気づいているだけだ。あなたは、広がりや、安心や、ただ存在することのゆっくりとした安らぎに気がつくかもしれない。広がった感じや安らぎを感じるかわりに、落ち着かなさや心配や不安を身体で感じているとしても、それもまた問題ない。何が生じても、それをダンスのひとつのパートとしてそのままにしておく。いまある状態から変える必要があることなど何もない。

思考を使ってすべてを解明しようと努力し、自分をついにリラックスさせ目的地に到着したと感じさせてくれるような何かを求めて、いろいろなウェブサイトを見てまわったりすることよりも、思考のない気づきやありのままの知覚の経験の方が「より良い」とか、「より非二元的だ」とか、「スピリチュアル的により正しい」と言っているわけではない。私たちのすべての苦しみと混乱は、思考によっては決して把握できないものを把握しようとしたり、理論的に説明しようとしたりするところにある、と言っているのだ。私たちは、すでに完全に〈ここ・今〉に存在しているものを、自分の外側に探すことによって、苦しんでいる。私たちが探し求めている自由と安堵は、どこか「あっち」にあるわけではない。探求が脱落したとき、それはまさにここにあるのだ。

もしこれを信じることができないのであれば、ただ一息ついてみてほしい。

ここにただあるということで、安堵を感じられるだろうか? 何かを解き明かそうとするのではなく、たった今起こっていること以外の特別な経験を求めるのではなく、答えを見つけようとするのではなく、ただある、ということで。ただこれ、まったくこのままで。

それじゃあ!

== 翻訳は以上 ==

ちょっと前の自分なら、「気づきとしてただ存在してみよう」とか書いてあれば、「なんだ、いまここにあるための練習か。何をしたって関係ないのに。起こることは起こるし、起こらないことは起こらない。この人分かってるのかな? ともかく自分にはどんな練習も起こらない!」などと、傲慢に却下していただろう。

もしかしたら、またしばらく経てばそう言っているかもしれない。が、ともかく今はちょっとやってみようかな、という感じになっている。

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