ブルルルルルン・・・ ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの著書 Painting the Sidewalk with Water (Non-Duality Press刊) からの抜粋 (原文こちら) を翻訳して紹介するシリーズの四回目。これが最後。

== 以下、翻訳 ==

別の参加者. 瞑想をすることで、やすらぎの感覚がもたらされるように思います。

J(ジョーン). 瞑想をすれば、やすらぎの感覚がもたらされるかもしれませんね。そして、瞑想をしてイライラすることもありえます。もしくは、交通渋滞の中とか仕事の最中に、突然やすらぎを経験する可能性もあります。あなたは、やすらぎを瞑想と関連付けて考えているかもしれませんが、やすらぎという経験は、本当に単純に、思考の夢の世界から目覚めて、現在のシンプルさに気がつくことです。まあそうですね、瞑想と、やすらぎや洞察や明晰さといったことの間には関係があるのかもしれません。ただ、真のやすらぎというのは、実際のところ、何かの原因から生じる結果ではないのです。やすらぎは自然な状態であって、永遠に実在する存在の、背景のない背景です。そしておそらく、瞑想が役に立つ時があるとしたら、それは、瞑想をすることで雲の覆いが消滅することによって、やすらぎが自然の状態ではないというように見えていたのが、そうでなくなるということです。でも、そのように雲の覆いが消滅するということは、瞑想している間にも、瞑想をしていない時にも、いつでも起こりえます。さらに、この雲というものも、無限性以外のなにものでもないものが、雲として現れているものにすぎません。

イライラという経験よりもやすらぎという経験の方が好ましい、という傾向があるかもしれません。それに、雲の覆いは敵対的なものだから、消し去らないといけないという信念があるのかもしれません。あなたが瞑想することが好きなのであれば、座って瞑想をすることに何もまずいことはありません。瞑想をすることで、もし身体にある程度の落ち着きがもたらされたり、現実の性質について何らかの洞察がもたらされるのであれば、それは素敵なことです。ただし、落ち着きは真のスピリチュアルな状態だけれども、イライラとか落ち着きのなさはスピリチュアルではないし望ましくないとか、望ましくない状態に陥ってしまった「自分」が存在しているとか、「私」が良い人間になってもっと頻繁に瞑想をしたら「私」は常に落ち着いていてスピリチュアルで正しい道を進む人になれるだろうとか、そういった観念は、そのすべてが不安をもたらします。それはそれで完全にけっこうなことです。不安がまずいということは全くありません。それも、いまあることの一つの側面です。

参加者 (以下、P). この気づきの方法は、結果としてやすらぎと落ち着きを・・・

J. 私は、未来に何らかの結果を得るために「気づいた状態にある」ようにする方法について話しているのではありません。私が言っているのは、気づきというものは〈ここ・今〉のまさに本質であって、存在しているのはこの一つの永遠の現在の瞬間だけだということです。ここから逃れることは不可能です。あなた方がそこに到達することはできません。なぜなら、この現在の瞬間だけが、存在しているすべてだからです。そして、このたった今の瞬間の中に、落ち着きや不安の両方を含むあらゆることが現れます。原因と結果のストーリーの中では、ある種の行為が落ち着きをもたらし、また別の種類の行為は不安をもたらすように見えますね。でも、こうした相対的な原因と結果の関係というものは、もし私たちが注意深く見てみるならば、事後になってから観念が上塗りしたものであることがわかります。リアリティそのものは、分割することができません。観念的には可能かもしれませんが、実際にものごとを切り離して原因と結果を見いだすことは不可能です。

P. それは、注意深くひとつひとつ物事を進めていくような感じですね。それがただ起こると。

J. ひとつひとつのことが自動的に起こります。そうです。あなたがそれを起こさせないといけないというわけではありません。それを生じさせることができる「あなた」はいないんです。脳卒中の後、理学療法によって歩く技を学び直すときや、赤ちゃんが初めて歩くときのように、あなたが自分でしないといけないように見えるかもしれません。でも、この学びの過程で起こるひとつひとつの行為は、宇宙全体の中で苦もなく起こります。そして、こうしたことすべてが、映画や夢の中の瞬間的なシーンです。ストーリーを離れれば、そこには実体も、連続性もありません。

P. 見ることというのは常に生じていると言いますが、それは本当ですか? 感情に巻き込まれているときは、ちゃんと見てはいませんよね? 見るということには、いろいろなレベルがあるということですか?

J. あなたが言うような「巻き込まれていること」が起こっているとき、もしそれを見るということがなかったら、それを後から報告することさえできません。気づきがなければ、それが起こったことも一切分かりません。

P. でも、そうやって見る前、人は巻き込まれていると言えます。

J. その瞬間に、巻き込まれるということが、気づきの中に現れていることです。気づきがなければ、それはまったく現れることができません。とは言え、あなたの言いたいことは分かります。何らかのストーリーや一連の思考から目を覚ます瞬間はあります。そういう時、そうしたものが頭の中の映画だったことに気がつきます。そして、ストーリーをストーリーとして見て、ストーリーが思考と想像以上の何ものでもないことを認識し、それを真に受けることも、それに夢中になることもなくなります。あなたが言う「見ること」というのは、幻想の本質を見ぬいて、我を忘れた状態から目覚めることを指しているわけですね? でも、その転換、目覚めは、勝手に起こるものです。誰かがそれをするわけではありません。目覚める「あなた」はいないのです。単に認識が転換し、夢から目覚めるということがあるだけです。それはただ起こります。するとその瞬間、思考するマインドがそれを自分のものにして(「私が目覚めた」というように)、この拡張した意識状態をいかに維持し、この目覚めをいかに再現するかという戦略を練り始めます。マインドは何もかも分けたがります(良い経験と悪い経験)。そして、すべてを個人的なものとして受け取ります(私の注意、私の不注意)。でも、すべては非個人的であって、分けることができません。そしてすべてのこと、私たちが想像したり、言い表したり、思い出したり、話したりできること、知覚したり考えたりできることすべて、すべての転換や変化、すべての目覚めや囚われ、そのすべてが気づきの中で現れます。気づきとは、〈ここ・今〉の別名です。気づきなしには、なにも生じることはありません。

最初に質問した参加者. 私がいつもしなきゃいけないと思うのは、「ただこれ、ただこれ、ただこれ、ただこれ」と言い続けるということです。それを録音したテープをずっと流し続けるのがいいかもしれません。

J. それは実にいいですね。小さなヘッドフォンを身体に埋め込んでおいたらいいかもしれないですよ(笑)

P. それをした方がよさそうです。

J. 神の恩寵を失わないようにですか?

P. ええ(笑)。これはたぶん、架空の問題を解決するためのステップの第一歩です。

J. そうです。神の恩寵を失うことができる「あなた」はいませんし、何も失うことはできません。あるのはただ〈ここ・今〉だけです。

P. それはいいですね。

J. 「ただこれ」という思考が生じ続けるかもしれません。それをしていると考えている「私」には、実体がありません。

P. じゃあ、何がそれを起こしているんですか?

J. 何がすべてのことを起こしていますか?

P. それは過程のように思えます。短い過程ですが、なにかの過程です。

J. 記憶の中ではそれは過程のように見えます。思考するマインドが事後になってからストーリーを組み立てるときは、です。でも、実際に起こっているのは、不安と呼ばれるある種の感覚が起こって、それから「ただこれ」という思考が起こります。するとあなたが言うように、この思考が「効く」時もあって、次に生じるのはゆったりとした落ち着いた感覚です。が、それが「効かない」時もあって、そんなときは不安が存在し続けます。もしかしたらその後で別の思考が起こるかもしれません。「チェッ、効かないわ。もう一回やってみよう。ただこれ!」と。

すると、もっとひどい不安が生じます。それから、ある時点で不安は消えます。もしかしたらそれは、何らかの目覚め、不安というのは単に思考の塊だったんだというような気づきによって、消えたのかもしれません。あるいは、あなたの神経化学的なホルモンのバランスが変わったことによって、消えたのかもしれません。または、窓の外を飛んでいく綺麗な鳥に突然気づいたせいかもしれません。いずれにしても、その転換が起きて、しばらくの間落ち着いて、呼吸を感じて、車の往来の音か鳥の声を聴き、何も考えずにいる、という経験が起こります。

それから、もしかしたらこんな思考が起こるかもしれません。「ああ、これがそれだわ! これが実在・気づきなのよ。これが空(くう)だわ。これが背景だわ。私はこれを維持しないといけない。これを手放してはいけない。これこそが人の後ろにある背景だわ!」 すると、思考は本格的に動き出し、いろいろと考え始めます。「自分は本当に背景に至ったのかしら? これが本当にそれなの? どうやったら確認できる? そもそも背景って何?」 それからしばらく経つと、不安に気づきます。そしてこんな思考が生じます。「ただこれ!」

そして、こうしたことすべてが起こっているとき、その根底にはこんな思考のストーリーがあります。「このすべてをやっているのは私だ。不安になり続けているのは私だ。自分が常に気づいているように思い出させないといけないのも私。人の後ろにある背景に到達しなければいけないのも私だ。目覚めを起こさせないといけないのも私。こういうことすべてを管理してコントロールしないといけないのも私。もし私がへまをしたら、私の人生全部を台無しにしてしまうわ。私はときどきへまをしているようだわ。しくじりつつあるのは私だし、分かっていないのも私だ。でも私には希望があるわ。頑張り続ければ、いつかは良くなる。いつの日か、私は背景として自分を永遠に確立するんだわ」

P. その映画の通りです(笑)

J. これは映画なんです。こういうことは全部どこから現れたんでしょうか? すべての映画、すべての思考、すべての行為、すべての木、葉、太陽、風・・・

P. 私はその映画を止めたいです。

J. 幸運を祈りますよ(笑)。無基底性(実質がない性質)にとっては、その映画には何の問題もありません。映画の中の幻影の「私」にとってだけ、映画が問題なんです。映画の中のキャラクターが映画から逃れようとしています。それ自体、映画の中のひとつのシーンです。この冗談が分かりますか? 解放されないといけないようなものは何もありません。そのことを認識することが解放です。それが認識されなければ、不安やドラマが起こるでしょう。それがどうしたというんでしょう? 不安もドラマも感覚と思考に他ならず、瞬間的な夢のような現象、映画の中の一つのシーンであって、すぐに終わってしまいます。背景は常にここにあります。映画があろうとなかろうと。

P. 人と交流すると、気が散ります。交流を始めると、私は誰だろう、私は誰に好印象を与えようとしているのだろうという疑問がすぐに生じます。

J. 気が散ると言いますが、何から注意がそれるのでしょうか?

別のP. 背景からでしょう(笑)

P. 構造物が出来上がってしまうわけです。それは幻影なんですが。

J. ええ、それは幻影ですね。実体がありません。注意深く見てみると、そこには何もありません。

P. でも、私は現在の瞬間に気づいていることができなくなって、どんどんエゴや思考や人間関係に心を奪われてしまうんです。

J. そうですね。それに気がつくことはとてもいいですね。でも、いますでにそうであるよりも〈ここ・今〉に近づくことはできないということも、認識してみてください。あなたが〈ここ・今〉なんです。すべては〈ここ・今〉に現れます。いわゆるエゴへの執着もです。現れるものすべてはたちまち消えます。瞬間瞬間に。それを行なっている「あなた」はいません。ただ単に感覚や思考があって、それらすべてが単一性です。存在しているのは単一性だけなんです。

P. ええ。ひどい収縮がない限りは、それで問題ないのですが。

J. 収縮の何がいけないのでしょうか? 自然なことです。それは生物の生のひとつの側面です。「問題ない」も「問題だ」も、事後の評価です。あなたは「気が散る」という言葉を使いましたが、私たちがあるものを「気を散らすもの」と考えるということは面白いことです。たとえば、あなたが完璧な静寂の状態にありたいと思っているとしましょう。すると、突然芝生をメンテナンスする人たちがやってきて、巨大な芝刈り機と落ち葉集め機のスイッチを入れます。マインドは「これは気が散る。これじゃあ、めちゃめちゃだ」と言います。これは確かに普通ではなく神経学的にもあまり愉快でない経験でしょう。でも、これが気を散らすものだという観念は、この瞬間を自分がどんなものにしたいかという像が根底にあることによって、そして、実際の経験がその像から逸れていることによって、生じています。何かが自分の空想の邪魔をしているというわけです。

P. ということは、それが気を散らすものだという観念は、それが単なる音である時よりも、さらに強く気を散らすものになるということですね。私は時々自分が本当に動転するんじゃないかと感じて、そのことが心配になることがあります。

J. 経験にはいろいろなものがあります。落ち着きがあり、それから気の動転があります。それが生きているということの構成要素、生物の生の要素です。

P. そうは言っても、これは嫌です。

J. あらあらあら・・(笑)

別のP. でもこうでないといけないと、どうして分かるんですか? ものごとがこのようにあるから、ということですか?

J. ものごとがこのようでないといけない、とは言っていません。そうでなく、ものごとはこのようにある、ということです。

P. 明日になったら、私はひどい恐怖を経験するかもしれません。私はどうしたらいいでしょうか?

J. まず初めに、たった今、それは完全に空想です。そして、もしそういうことが起こるのであれば、それが起こるのは今です。それは単に、今起こっていること、になるでしょう。どのように展開するか、あなたはそれを見ることになります。

P. でも、誰がそんな恐怖を望むでしょうか?

J. 誰もいないでしょうね。私も恐怖よりはやすらぎの方がいいです。食べるならゴキブリよりもアイスクリームの方がいい、というのと同じです。でも実際のところ、私もいくらかの種類の激しい不快な感情を感じることが時々あります。

P. 私はいくつかのテクニックを知っていますよ。

J. この部屋にいる誰もが、それを教えてもらわなくても、あらゆる種類のテクニックを知っているのは間違いありません。この起きている人生という映画をコントロールできる人は誰もいません。それに、映画の中に、本質的に間違っていることなど何もありません。苦しいことや不愉快なことはあるでしょう。恐怖や不安は、それが本当にひどくなると、この生物の死につながることさえあります。でもそれさえも、単に起こっていることなんです。そして本当に、何も起こっていません。私たちは本当は、不死で、生まれてもおらず、初めもなく終わりもなく、無限で永遠の存在なんです。

P. 恐怖はいつかは消えてなくなります。

J. でも、あなたはそれについて何の選択もできません。もしあなたが知っているテクニックのうちのどれかを使ってみたいという衝動が生じるのであれば、それは起こるでしょう。何もテクニックを使わないという衝動が生じたら、テクニックは使われないでしょう。

ただ、マインドがどのように戦略を探し、明日の朝起こるかもしれないことに対処する方法を探そうとしているか、ということに注意を向けてみてください。そういうことには見込みがありません。見込みがないと言っても、あなたの残りの人生ずっと恐怖があり続けるでしょう、と言っているのではありません。そうではなく、恐怖というものから離れていて、それをどうこうできるような人間というものがそもそも存在していないという意味です。現れるものをコントロールしている人は誰もいないんです。

そして、それが問題であるように見えるのは、見かけの現象という文脈の中だけの話です。見込みがないということは、本当は大いに自由をもたらすものです。もし、「希望があったらいいのに。でも、ああ、希望はないんだわ」と考えるとしたら、それは失望です。でも、希望はなく、希望を求める必要もなく、背景というのが存在するものすべてであり、それを失う可能性は全くない、なぜなら自分はそれなんだから、ということが本当に分かれば、それによって大きな解放感がもたらされます。

P. 動揺は、そこから目をそらすよりも、ちゃんと見たほうがいいのでしょうが、それは難しいことです。苦痛は辛いからです。

J. 動揺に対してどんな反応が生じるか、ということをコントロールしている「あなた」はいません。動揺をちゃんと見て、完全にそれを受け入れるということが起こることもあれば、目を逸らして抵抗するということが起こるときもあります。一つを選んで他のことを選ばない、ということができる人は存在していません。それを受け入れるという衝動が生じたときに、その受容のなかで苦しみがすっかり消えるかもしれないというのは確かにそうでしょう。逆に、回避しようとする衝動が生じたときは、お店に駆け込んで、懐かしい料理を沢山食べたり、スコッチを沢山飲んだりということが生じるかもしれません。もしそうなれば、消化不良と二日酔い、他にもいろいろな苦しみを経験する可能性が高いです。でも、そうした経験のうちの一つだけを選んで、自分で経験を作れるような人はどこにも存在していないんです。それと、食べ過ぎ、二日酔い、消化不良といったことでさえも、すべてが同様に背景です。それは単にエネルギーのいろいろなパターン、いろいろな見かけ、いろいろな形、いろいろな感覚なんです。そうしたことは、ゴキブリよりもアイスクリームを好むのと同じように、マインドにとっては望ましいことではありません。人は不安よりもやすらぎを好みます。もっとも、とても面白いことに、人は不安にもいくらか感心をもっているように思えますね。やすらぎという状態にずっといると、マインドは、犯罪ドラマやニュースを見ることで、ちょっとした不安の経験を求めます。

P. 私は、ここにあるものを受容して、そこから逃げないようにしたいです。

J. たった今、ここで生じているのはこんな思考です。「私はここにあるものを受容して、そこから逃げないようにしたい」 でも、夜になったら、全く違う衝動や、全く異なる思考の連なりが生じるかもしれません。私自身、オープンになりたいと思うこともあれば、逃げて閉じたくなるときもあります。自分が何を求めるかとか、その求めることによってどんな行為が起こるか、ということを選べるような誰かが、私の内側で指揮をとっているわけではないのです。どんな時も、何であれ最も強いエネルギーを持っているものが、その瞬間勝ち抜きます。生じることすべてが、オープンになったり閉じたりすることも含めて、同じように背景なんです。そして、生じるものすべてが、夢のような見かけだけの現象です。ですから、私は自分がオープンになっているか、それとも閉じているかということをあまり気にしなくなったと思います。確かに、自分をオープンにしてものごとを受容する、ということに関する興味が生じることもあります。自分を閉じるということが害を及ぼすような形で現れた場合は、心配が生じて、状況を調べることによって何が起こっているのかを見出そうとするかもしれません。でも、そのどれもが勝手に起こることです。

脳の実験が明らかにしたところでは、何かを選ぼうとか行為をしようという思考は、何らかの行為が身体の中で開始された後、一瞬の間を置いてから発生するということです。「私は、現在の瞬間に自分の注意を向けよう」というのは事後の思考で、すでに起こっていることを言い表しているだけであり、誰が起こしたのでもありません。あるいは宇宙全体が起こしたと言っていいかもしれません。

長い間、私は、「今にいる」とか、恐怖や怒りの身体の感覚に「完全にオープンになる」ということに集中していました。それから、思考を思考として認識し、現在の瞬間に戻るといったことに、とても熱心に取り込んでいました。思考から現在の瞬間の気づきに移るということは今でも起こります。でも、それがどちらであろうと大したことではなくなっています。そうしたことは勝手に起こります。実際、常にそうだったんです。でも、それを、スピリチュアルな意味で成功するために「私」が取り組むべきつらい課題であると考えることはなくなりました。そのような上塗りは消えました。オープンになることは起こるかもしれないし、起こらないかもしれない。いずれにしても、気づきは存在しているということに気がついています。知覚できること、考えることができることはすべて、気づきの中で起こります。思考や、いわゆる気を散らすものも、気づきの中で起こります。知覚できること、考えることができることのすべてに先立つものが〈ここ・今〉であり、そこからは逃げることもできないし、それを失うこともできません。

P. どうしたら、この状態から、そのような状態に至れるでしょうか?

J. その質問が、架空の問題を創り出し、質問によってその問題が解けるというふりをしていることを認識することです。あなたは絶対に〈ここ・今〉の外に出ることはできないということを認識することです。この瞬間を、まったく今あるようにさせてください。あなたは何の選択もできないということを認めてください。あることは、あるようにあります。この「あちら」へ到達しようとする馬鹿げた絶望的な探求でさえ、〈ここ・今〉に現れている思考、感覚に他なりません。これもただの過ぎ去るショーで、瞬間的に消えるものです。それは誰のものでもありません。

そろそろ時間です。さて、私たちはどこかに至りましたか? 改善したでしょうか? 以前よりも単一性に近づいたでしょうか? さらに滑り落ちてしまったでしょうか?(笑) あるのはただこれです。あのトラックのブルルルルルンという音。あれが聖なる現実、絶対の真実、全くの無です。ブルルルルルルン。

== 翻訳は以上 ==

リチャード・シルベスターの言うThis Is It!ということが、ジョーン流の言葉で繰り返し辛抱強く語られている。

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ブルルルルルン・・・ ジョーン・トリフソン」への2件のフィードバック

  1. ひろさん、いつもありがとうございます。^ ^

    いつも、コメントを書こう!と思っても、ブログを読みはじめたら、
    イイ感じになって、ことばも なにのかもがなくなって、
    終わってしまっていました。

    ジョーンさん、感覚的に とてもすきです。

    翻訳、心からありがとうございます。^ ^

  2. ゆかさん、どうもありがとうございます。「イイ感じ」とはいい感じですね(笑)

    ジョーンの文章とQ&Aはなぜか好評ですね。本人の気楽な感じとか、探求の深刻さを嘲笑うのではなく、優しく笑い飛ばすような感じが僕も好きです。

    もう少し、彼女の文章を紹介してみようかと思います。

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