次は何? ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの著書『Painting the Sidewalk with Water (Non-Duality Press刊)』からの抜粋 (原文) を翻訳して紹介するシリーズの三回目。

== 以下、翻訳 ==

参加者 (以下、P). (すべてが一なるものだということが分からないと言っていた別の参加者に向けて)自分が持っている疑問とただ共にあることによって、私の場合は何かが完全に転換して、何かが開きました。あなたも、自分の疑問をそのまま抱えていれば、そのうち切り抜けられるんじゃないかと思いますけど。

ジョーン (以下、J). 私は、彼女が何かをする必要があるとは思いません。あなた方があなた方であるために変える必要があることは、何もないんです。これが、たった今、単一性なんです。経験は、現れては消えていきます。経験がどんな形をとろうとも、それには関係なく単一性は存在しています。あなた方がしないといけないことは何もないし、切り抜けないといけないようなことも何もないし、成し遂げるべきことも、乗り越えないといけないこともありません。あなた方は、たった今のあなた方のそのままで、全体性の完璧な表現なんです。

アドバイスをした参加者. その通りですね。どうもありがとう。見事です。鋭いですね。

J. すべては、あるがままの全くそのままの状態で美しいものです。すべては完璧な表現で、この瞬間にはその表現しかありえません。別の表現として現れることはありえないのです。そして、そのすべてに実体がなくて、空っぽです。物質的なリアリティもなければ、固有のリアリティもありません。夢の世界のような現象です。夢から出たら何も実在していません。

P. あなたはそれが本当だとなぜ分かるんですか? 自分の知覚が正確だということは、どうしたら分かるのでしょうか? ものごとが自分が考える通りになっているということは確かでしょうか?

J. 人が考える通りになっていることは何もありません! 人の知覚が「正確」かどうか、というのはどういう意味でしょうか? その質問は、人間から離れて「あちら」に存在している、何らかの分離していて実体のある物質的なリアリティがある、ということを前提にしていて、その上で、それを正確にあるいは不正確に知覚できるかどうか、というものですね。それが、人がリアリティを想像して考える方法です。でも、実際には私たちの経験というものは、まったく分割されていない知覚です。人は明らかに、それぞれ完全に異なる世界を認識しています。自分とまったく同じ世界を見ている人は一人もいないでしょう。それでも、ホログラムかインドラの網の宝石のように、あらゆる部分が全体を包含しています。あなたの世界は私を含んでいて、私の世界はあなたを含んでいます。ですから、私が純粋な知覚という否定できない事実を指し示しているとき、知覚されているものが、何らかの形で外部に存在する物質的なリアリティと一致している、と言っているわけではありません。それに、純粋な知覚の上に上塗りされたストーリーや解釈の中に真実を示すものがある、と言っているわけでもありません。私が指し示しているのは、知覚しているという否定できない事実です。それは否定できません。私たちは、知覚されているものは夢なのか、物質的な現実なのか、それとも脳内の創造物なのか、そんなことを考えるかもしれませんが、そうしたことはすべて事後の解釈であって、疑おうと思えば疑えます。ですが、知覚しているというそのこと自体は疑えません。この現在の現象は、それが起こっている時、疑うことができません。そのシンプルでありのままの事実は疑えないんです。

言葉がすることができることと言えば、私たちが本当だと考えることすべて、マインドが手にいれたり支配したりしようとする場所すべてを、崩したり、破壊したりすることだけです。言葉が、言葉を超えた何かを指し示しているということです。

P. ものごとがさっさと進んでいるときは、穏やかなときに比べると、自分がそれを失ったという感覚が強いです。ものごとが加速していって、私があるがままの状態に抵抗しているようなとき、面倒なことがいろいろと私に起こるように思います。

J. そうしたことすべてが、あることなんです。加速すること、いわゆる抵抗、いわゆる面倒なこと、トラブルの後に現れる穏やかさ、すべてです。そういうこと全部が、〈ここ・今〉に現れます。ひとつの、流れるような、継ぎ目のない全体です。

別のP. このやり方だと、裁きということが起こる余地がないですね。

J. いえ、裁きは起こりえますよ。すべてが起こりえます。(笑)

P. 思い出すということは起こるように思います。忘れずにいるというような。

J. ええ、現れる経験にはいろいろなものがあります。加速とか抵抗とか怒りとか狼狽という経験があるかと思えば、ゆったりとオープンで空っぽで穏やかな経験というものもあります。それから、この経験は「それ」だけれども、別の経験は「それではない」という思考も起こりえます。さらに、そういういろいろな状態を行ったり来たりする「自分」がいるとか、「スピリチュアル的に見て正しい」経験に戻らないといけないということを覚えていようとする「自分」がいるとか、いつの日かそうした状態に安定して「悪い」経験と永遠におさらばしたいと望む「自分」がいるとか考える思考もありえます。でも、それは本当に見込みがないのです。(笑) こうした経験をするような誰かというのは存在していません。それから、永遠に続く経験というのもありません。

P. それを聞いて止まる場合もありますが、そうでないときもあります。

J. 一体何が止まるんですか?

P. 抵抗です。

J. たった今、抵抗が起こっていますか?

P. ちょっとあるように思います。さっきは無かったのですが、また現れました。抵抗がない瞬間が1000分の1秒ほどあったんですが。

J. そうですか。あたながものすごく頑張れば、その1000分の1秒をもう少し延ばせるかもしれませんね(笑)。これがそれなんです! これです。 マインドが苦しんだり、抵抗したりすることすら、苦しみや抵抗として現れている単一性以外の何ものでもありません。

P. ここからそこに至る道はないのですか? ないということですよね? 唯一の道はここにあると。クリシュナムルティや他の人の本を読んで、そう感じます。ここからそこに至る道はないんだと。

J. そこ、というのは存在していません。どんな「そこ」もマインドの中にあります。存在しているのは、ここだけです。これだけです。ですから、あなたが至ろうとしているどんな「そこ」にも、未来のいつかに至ろうとしているどんな「ここ」にも、たどり着ける見込みはありません。それは、そういう場所は存在していませんし、そこに行こうとしている誰かも存在していないからです。いつも存在しているのはこれだけです。これからは逃げられません。あなた方は〈ここ・今〉にいないということができないのです。

P. 自分ならできると思いますけど(笑)

J. その思考も〈ここ・今〉に現れています。それはただの思考です。その思考が示しているストーリーのバカバカしさが分かりますか。どういうわけか、このボブ・ジョーンズというひとつの小さなはぐれ者が現れて、全体性からどうにかこうにか離脱したというようなストーリーです。

別のP. 「これがそれだ」ということが分かるとすぐに、私のマインドは「次は何?」と言います。私はこれから離れようとします。

J. それが、マインドがすることの一つです。マインドは「次は何だ?」と言います。マインドは計画を立てて、準備をして、「次は何?」と思い巡らせるのです。それがマインドの仕事です。それは、生き残りのための機能です。でも、その思考の動きも、同じ空(くう)、同じ全体性、同じ存在です。「次は何?」という思考が二度と生じないような場所を自分は求めているんだというような考えがあるとしたら、必ず失望と欲求不満にみまわれるでしょう。そういう考えがあることによって、「次は何?」という思考に、実際よりも大きな力と重要性が与えられてしまいます。まるで、「次は何?」という思考が、追い払わないといけない敵対的で恐ろしいものであって、存在してはならないものであるかのようになります。でも、それがポッと現れたのであれば、明らかにそれは存在することが許されています。ここにあるんですから! そうしたらたちまち終わりです! なくなります! 消えたんです! ですから、「次は何?」という思考が現れても、それがどうした?です。これは、残りの人生を思考のない空の状態でじっと座っていられるようになるぞ、というようなことではないんです。

P. 私のマインドはこう言うんです。「どんな現象が現れていたとしても、背景ではいつも空(くう)の映画が上映されていないといけないんだ」と。この考えをどうにか消してもらえませんか?

J. 「どんな現象が現れていても、背景ではいつも空の映画が上映されていないといけない」ですか。それは複雑で骨が折れる仕事のように思えますね。

P. いつも空を忘れるなというわけです。

J. 空を逃れることはできません。それを忘れないようにする必要はないんです。どんな「空」も、それが思い出すことができるようなものであるならば、それは単にまた別の対象物です。このたった今、ここが空です。いまだかつて空以外に存在したものはありません。空はなにかの特別な体験でもなければ、忘れないようにしないといけないような特別な状態でも、どんな経験をしていてもその背景で流れ続けていないといけないようなものでもありません。すべての経験が空です。いま話している言葉も空です。あなたも空です。空しかないんです。

P. 私にはいまそれが分かりません。私が使うたとえは、人と背景です。私はいつも何か起こっていることに巻き込まれているわけですが、すると思い出すんです・・

J. でも、「背景」から離れて「人」であることに巻き込まれていて、「背景」に戻らないといけないような「あなた」というのは存在していません。そういうものは全部ただの観念です。いつかの時点で、それが役に立つ概念、役に立つ地図だったことがあるのかもしれません。でも、いまやそれが重荷になっています。

別の地図を試してみたらどうでしょう。あなたが背景です。背景のない背景です。背景しか存在していないのですが、その背景がすべての人として現れています。背景から逃れることはできません。背景から離れていて、背景に到達しないといけないようなものは何もありません。背景は、思い出して維持しないといけない特別な経験ではありません。この現在の瞬間が背景です。「すべての背景の中に背景がある」ようにしようとすることでさえ、それ自体が背景です。こっけいなダンスをして、自分自身にいたずらをしているんです。もちろんこれはストーリーです。文字通りに受け取らないでください。重要なのは、背景が何かと分離した何かではないということです。それは、状態でも経験でもありません。あなたと離れて「あっち」に存在しているわけではありません。背景は、存在するものすべてです。あなたは〈それ〉なんです。

== 翻訳は以上 ==

マインドのトリッキーな性質があぶり出されるような対話だと思う。ただ、文字を追っても、結局マインドのトリックは続く。巧妙になっていくだけのような気がする。

が、ジョーンの本を読んでいると、「いまこの段落を読み終えたら、本を置いて、いまここで起こっている音、見えるもの、香り、感覚に注意を向けてみてください」という指示がよく出てくる。それに従うと、ちょっと面白い。が、その面白さを解釈して自分のものにしようとする働きがすぐに「再稼働」する。疲れる。

(注:当初、the groundを「地面」と訳したが、後に「背景」に変更した)

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次は何? ジョーン・トリフソン」への2件のフィードバック

  1. 言葉で説明できないことを言葉で説明しようとしてくれる方々には
    単純にすごいな~と思ってしまいます。
    そうしようという何かが働くんでしょうね。
    ジョーン・トリフソンさんの言葉は私にはわかりやすく感じました。
    ヒロさんの翻訳もいつもとてもわかりやすく感じています。

  2. Haruさん、こんにちは。ジョーンの言葉は、時に冗長になりがちな嫌いは少しあるものの、かなりわかりやすいですよね。

    彼女のウェブサイトのおすすめ書籍のコーナーはすごいです。
    http://www.joantollifson.com/recommend.html

    超大量の本のレビューが書かれていて、ジョーンがどれだけノンデュアリティ関連(アドヴァイタ、禅、その他諸々)の本に目を通しているか分かります。古今東西の多様な表現に精通しているのだろうと思います。それが、彼女のわかりやすい表現にもつながっているのかなと勝手に推測しています。

    一週間弱のリトリート等で、朝、昼、晩と話し続ける先生たちの情熱にはいつも驚かされるのですが、それが動機なく行われているということには更に驚きます。確かに、何かが働いているのだろうなという感じがします。季節がめぐり、花が咲いて、小鳥がさえずり、という自然の表現にも当然何かが働いているのだろうし、それは本当にすごいなあと感じます。が、何もないことについてこれほど語り続けるということが起こっているのは、本当に面白いことです。

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