境界という幻影 ジョーン・トリフソン

 
ジョーン・トリフソンの著書Painting the Sidewalk with Water (Non-Duality Press刊)からの抜粋 (原文こちら) を翻訳して紹介するシリーズの二回目。今日は対話の最初の部分。

== 以下、翻訳 ==

P (参加者). 私には落ち着きのなさがあります。何か不安なことがあるというわけではありません。特定の何かを求めているということでもないのです。ただ、同じところに留まっていられない落ち着きのなさがあるんです。

J (ジョーン). どこに留まれないのですか?

P. ここです。いまの状態に留まれないのです。

J. でも、ここから離れることはできませんね。あなたの言う「落ち着きのなさ」というものは、実際には、変化し続ける神経科学反応、思考、感覚がまざったものなのですが、それに「落ち着きのなさ」というラベルが付けられています。そして、そのラベルには、すでに批判的で軽蔑的な感じがあります。すると、思考(「私」のふりをしています)が急に現れて、落ち着きのなさを自分のものにします(「これは私の落ち着きのなさで、私の問題なのだ」と)。この思考は、ニサルガダッタがよく言っていたように「荷物を受け取り」、この「落ち着きのなさ」を個人的なものとして受け取ります。このような、ラベルを付け、荷物を受け取り、それを自分のものにする、ということは自動的に起こります。非個人的にです! その後、もっと多くの思考が起こります。比較したり、対照したり、裁いたり、戦略を練ったりするのです。「この落ち着きのなさは賢明なふるまいとは言えないわ。ひどい感じがするし。前に経験したような、もっと違う経験の方がいいわね。そうだ、あの空っぽの空間の至福に満ちた感覚、あれはスピリチュアルだったわ。私はこの落ち着きのなさから逃れないといけない。落ち着きがない状態でいると、私がいるべき『ここ』から離れてしまうのだから」 こうしたものはすべて思考で、それは無数の要因や条件付けから生じますが、こうした思考が描き出すイメージのすべては、全く空疎なものです。こうしたことのいずれについても、それをどうにかできるような「あなた」は存在していません。これは本当にどうしようもないことなのですが、これは、それをどうにかしようとしたがるマインドにとってだけ悪い知らせです。問題というのは、完全に架空のものです。

P. 落ち着きのなさが生じたときは、それをただありのままのものとして捉えれば・・

J. ほら、たった今、マインドが戦略を見つけようとしていることに気がついてください。この落ち着きのなさというのは問題なんだからこれを取り扱う方法を探さないといけない、という前提がありますね。

P. 本当に絶望的です! 壁に大きな文字でそう書くことにします。「絶望的だ」と。それがすべてです! それを覚えておくことにします。

J. でも、どうですか。また同じことですね。その思考です。「それを覚えておけば、私は大丈夫だろう。書いて壁に貼っておけば、たぶんそのことを思い出すだろう」 そして、こうした戦略を見つけようとすること自体もそれなんです。単一性から離れることはできません。

別の参加者. 「絶望的だ」とはどういう意味ですか?

J. 私が言っているのは、この白日夢に関して何かをできるような人はどこにも存在していないということです。前に聞いたことがあったり、想像したり、以前そのようなことがあったりといったような状態に至りたいという思考があって、その状態にどうやったら至れるかという戦略があります。「十分に頑張れば、それは可能なんだ」という思考があります。それが希望です。でも、それをしたいと思っているその人は幻影で、目的地は架空のものです。絶望は、人が何かが欠けていると想像したり、何か望ましくないことがあると想像したりするときにだけ、厄介な問題なんです。希望というのは要するに、いまあることではないことを欲することです。希望は、あるものごとは「それ」だが、別のものごとは「それではない」という観念に根ざしています。希望とは、幻影が幻影を追いかけることです。私の言葉を信じないでください。自分で確かめて考えてみてください。

P. 一なる全体があって、私たち個人というのは存在していない、ということを理解することが、私にはいつも難しいんです。

J. そうですねえ。ここにはいろいろなパターン、いろいろな色や形、いろいろな感覚があります。そのことを否定しているのではありません。でも、見かけの形に、永続する堅固さ、自律性、連続性、分離といったものは存在していません。そういうものは、観念的な思考によって創り出された幻影のような見かけです。私たちは全体を認識することはできません。認識はそれ自体を認識することはできません。眼がそれ自体を観ることができないのと同じです。非二元性や単一性というのは同一性のことではありません。非二元性や単一性というのは、分離がないということ、自律性をもった部分というものは存在しない、ということを示しています。ここには明らかに多様性と変化が存在しています。でも、それは一つで継ぎ目のない全体です。人は、境界線を引くようになり、独立した物体を認識して区別するようになり、そうした概念化された物質のうちの一つを「私」として同一化するようになりました。そして、自分はその物体の内側から外を見ているのだと考えます。でも、すべての物体よりも大きな視覚があります。気づきは、「私」を含むすべての物体を包含し、眺めていますよね? そして深い睡眠の間、すべての物体は消え去ります。夢の中の物体は、夢の外で実際に存在しているでしょうか? 感覚がなく対象物をもたない実在、深い睡眠の間もあり続けるその実在は、ここに今あります。それは、見ることも知ることも所有することもできません。それは、人として、気として、鉛筆削りとして、爆弾として、花として、思考として、言葉として、感覚として、遠くの銀河やブラックホールとして現れています。この全体性、あるいは空(くう)というものが、存在しているものすべてなんです。そこから分離しているものは何もありません。

名前を付けることができるどんな物体も、実際には継ぎ目のない流れであるものを精神的に概念化したものであり、抽象的に概念化したものであり、具象化したものです。見かけの上で「私」と「あなた」を分けている境界線は、詳しく調べてみれば、とても流動的で、穴だらけで、気まぐれで、非現実的であることが分かります。

物質には(テーブルや椅子のようなものだけでなく、思考や感情や「あなた」や「私」や「私のマインド」や「あなたのマインド」も)、何でも概念化してしまうマインドが描くような個体性が実際にはありません。厳密に調べてみれば、そのことは明らかです。物質に関する思考の中でだけ、物質は固定していて永続的で分離していて独立したものとして存続するように見えます。でも実際には、あなたは10年前のあなたと同じ人ではありませんし、10秒前のあなたとさえ同じではありません。化学的にも変化しているし、細胞も変わっているし、血液は動き回っているし、思考も変化してしまっています。「あなたのマインド」は「他人のマインド」の思考と観念でいっぱいになっていますし、この部屋にいる全員が息を吸ったり吐いたりしていて、空気や化学物質や原子より小さい微粒子や思考やいろいろなバイブレーションを交換しています。境界がどこかにあるでしょうか?

相対的に言えば、私たちは個人として存在していると言うことはできます。そのように見えます(厳密に調べない場合ですが)。見かけが消えてしまうことはないですし、自分の名前を忘れてしまって、その代わりにある種のサイケデリックな原色の形のないぐにゃぐにゃが見えるようになるということもありません。そういうことではないのです。でも、別のものと分かれている何かを見つけたことが本当にあるでしょうか? ジョーンが、ジョーンではないすべての他のものから分離して存在したり、分離して現れるということが、かつてあったでしょうか? ジョーンではないと信じられているもの全てとの対比によってのみ、ジョーンは定義され、ジョーンとして認識されているのではないでしょうか? そして、実際にはジョーンは他のすべてのもの、空気や水や空間、そういったもので構成されているのではないでしょうか? すべてのものは、一つのまとまった分けることの出来ない光景として、すべて一緒に一気にここに現れているのではないでしょうか? 詳しく調べてみたとき、内側と外側の境はどこにあるでしょうか? 実際に境界線を見つけることはできるでしょうか? たった今、あなたの直接的な経験において、私の声はあなたの内側にあるでしょうか、それとも外側にあるでしょうか?

P. そうは言っても、私は自分の腕は動かせますが、あなたの腕を動かすことはできません。自分の頭痛を自分の頭の中で感じることはできますが、あなたの頭の中の頭痛を私が感じることはできませんよね。

J. 「私の腕」「あなたの腕」「私の頭」「あなたの頭」は、概念的な思考です。実際に経験しているのは、ここに現れている形であり、色であり、動きであり、感覚です。距離も分離もまったくありません。そうですよね? 私がこのように腕を動かすと、それはここで起こっている何かですが、もし私たちがこのことを「私が自分の腕を動かす」というように言い表すことを学んでいなかったら、何らかの架空の「私」がこの動きを起こしているのだと認識されるでしょうか? 私は自分の足の血液細胞を動かすことも感じることもできませんが、それでもそうしたものを私は「自分の足」の「自分の血液細胞」として考えるようになっています。ですから、私があなたの腕を動かせなかったり、あなたの頭痛を感じられなかったりしても、あなたの腕やあなたの頭は私の血液細胞よりも「私」でない、とは言えないのではないでしょうか? 分かりますか。すべては思考ですよね?

人がものごとを言い表すこと、考えること、概念化することが、実際の直接的な経験の上に上塗りされていきます。これは本当にとてもとらえにくいものです。こうした概念的な上塗りは、非常にありふれていて、とても条件反射的になっていて、あまりに当たり前にどこでも行われているため、自分が概念化しているということに気がつくこと自体が相当難しいことです。そしてもちろん、私たちが概念化しているのではなく、概念化が生じているのです。この場合も、言語が混乱を生んでいます。

当たり前ですが、「あなた」や「私」と呼ばれているものが認識されなくなったり、ある人と別の人を区別することができなくなったり、「私」が「あなた」の腕を動かせるのだと想像しはじめたりする、というわけではありません。ただ、「あなた」とか「私」というのは、ここで、この所有者も場所もない広大で分けることのできない全体性の中で現れている、イメージであり抽象概念なのだ、ということを実感することはできるでしょうか?

ここで言ったことを信じないでください。でも、興味をもったのであれば、調べてみてください。といっても分析的な思考を使うのではなく、気づきで調べてみるんです。徹底的に見てください。注意深く見てください。自分の目で調べてみてください。実際にはこれはかなりたやすく、単純なことです。たった今のあなたの実際の経験にただ単純に気づいてください。それについて思考を巡らす前に。神秘的なことは何も言っていません。このことは明白なことで、あなたの鼻の真ん前にあって(よくある言い方ですが)、見落とすことは不可能です。すべては今ここで一気に継ぎ目なく現れています。すべては、この瞬間に、正確にいまあるように存在していて、別のあり方で存在するということはありえないんです。

== 翻訳は以上 ==

血液細胞のたとえは秀逸だ。これを読んだとき、境界が揺らぐ感覚に包まれて、愉快な気分になった。

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境界という幻影 ジョーン・トリフソン」への2件のフィードバック

  1. ヒロさん
    今回も翻訳ありがとうございます。
    私も前回今回と読んでいて、境界線が揺らいでいく不思議な感覚に包まれました。
    この感覚は気持ちよくて、ふわっと軽くなったような感じがします。

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