聖なる現実 ジョーン・トリフソン

 
昨秋のSANDカンファレンスのときに、初めてジョーン・トリフソンのトークを聞いた。アメリカ人女性で、禅の修行を長く続けた人だ。下の動画で分かるように、右腕の先が無い。生まれつきだそうだ。

Joan Tollifson, Beauty is in the Seeing

SANDのことを書いたときに書いたかもしれないが、彼女から感じられる自由と気楽さの感覚は素晴らしかった。彼女が今目の前にある奇跡について語ると、別のところで何かを見つける必要が本当にないような感覚がした(その解放感がその後の昼食時に消えたのは事実だが)。

ジョーンのウェブサイトに、彼女の著書『Painting the Sidewalk with Water』(Non-Duality Press刊)からの抜粋が掲載されている(It’s Hopeless: Talk and Dialog)。ジョーンの許可をもらったので、何回かに分けて翻訳して紹介したい。

まずは、ミーティングの冒頭の彼女の語りの部分だ。

== 以下、翻訳 ==

あなたは既に目覚めています。あなた、といっても、空想上の分離した個人のことを言っているのではないのです。私が言っているのは、たった今ここにある、この目覚めた存在のこと、すべてを含む、本当にすべてを含んでいる、無限の単一性のことです。陽の光、鳥、葉、車の往来、思考、胃酸過多。すべてが〈聖なる現実〉です。この無限の単一性から分離して何かが存在しているということはありえませんし、この単一性を失ったり、あるいはそれをまだ手にしていないということもありえません。それは、この単一性と離れていて、それを獲得したり、失ったり、見つけたり、自分のものにしたりできるような誰かというのは存在していないからです。「私はまだ完全にはそこに至っていない」という思考は、ただの思考にすぎません。こうした思考と、それによって創り出されるメロドラマも、それ自体が単一性に他ならないのです。

テレビのスイッチをつけるだけで、意識というのは遊ぶことが大好きだ、ということが分かります。意識は、メロドラマもホラー番組も犯罪ドラマも幸せなラブストーリーも悲劇的なラブストーリーもコメディも冒険物語もカーチェイスも戦争も全部楽しみます。意識は静寂も楽しみます。ストーリーから目覚めることも楽しみます。かくれんぼも楽しみます。見つけることも、見つけられることも、そしてまた隠れて、また見つかることも、楽しみます。眠ることも楽しめば、目覚めることも楽しみます。生と死、創造と破壊、現れることと消えること、拡張と収縮、そういうゲームも楽しむのです。

晴れて陽光が満ち溢れている天気のときがあります。喜びと生き生きした素晴らしい感覚があって、すべてが鮮やかできらやかで明るく綺麗です。そして、別のときには、単調さ、動揺、イライラといったことを経験します。雲の多い嵐の陰鬱な天気です。こうした感覚、思考、経験のすべてが単一性に他なりません。「こんなものがそうであるわけない」という思考でさえも、単一性なのです。

見つけ出すべきものは何もありません。存在しているのは、これだけなんです。(ジョーンがすべてを指す身振りをする)

落とさないといけないあなたも、消滅させないといけないあなたもありません。ジョーンとかテッドとか椅子とかラグとか樹とか呼ばれるエネルギーの異なるパターンはあります。でも、固定したものは何もありませんし、この変化しつづけるパターンの内側に固定した自己があるということもありませんし、分離していて存続し続けるような物体はどこにもありません。すべてはひとつのエネルギーで、どこにも途切れのないひとつの流れなんです。

好き嫌いは存在しています。食べるならゴキブリよりもアイスクリームの方がいいですし、大虐殺よりは平和があることを好むでしょう。(もしくは、私たちはそのように信じたがります) そうしたものも、この同じ途切れのない流れが、そのように現れているのです。ゴキブリとして、アイスクリームとして、大量虐殺として、好き嫌いとして。もしマインドが「ええ、でも・・・じゃあ、これはどうなるの?」とか「そうかもしれないけど、ちょっと待って、これについてはどうなのかしら?」といったことを忙しく言っているとしても、それも、同じエネルギーが、それ自体に疑問を持ち、それ自体を探究し、それ自体を発見し、それ自体を展開させたり畳み込んだり、それ自体を形にしたり形を崩したり、それ自体にいたずらをしたり、それ自体を楽しんだりしているということです。「世界」とか「宇宙」と呼ばれるこの現象全体に、何の実体もありません。あなたが5秒前に何を考えていたか、見つけることができるでしょうか。完全に消えてしまっていますね。なくなっています。今朝のことも完全に消えています。今朝のことは一切何も見つけることができません。朝僕がコーヒーを飲んだキッチンテーブルはまだあるけどなあ、と考えているかもしれませんね。でも、瞬間瞬間、テーブルも台所もあなたも、同じものではありません。そうしたものすべてが、原子より小さいサイズの消えてゆくダンスであって、意識のなかのショーです。「僕のキッチン」は、誰もそれを意識していないとき、存在しているのでしょうか? この瞬間に至るまでのあなたの人生のすべては(ジョーンが繰り返し指をパチンと鳴らす)、完全に消えてしまっています! もう無いのです。人生というものが本当にあったのでしょうか?

〈ここ・今〉において何が現実に存在しているでしょうか? これは素晴らしい問いです。

すべては苦もなく勝手に起こっています。陽光は起こり、見ることも起こり、聞くことも起こり、呼吸も起こり、手の動きも起こり、この言葉も起こっています。そして、これらすべてが全くの無です。毎夜の深い睡眠状態のとき、というよりも毎秒毎秒、すべては完全に消えて、どこかに行ってしまいます。

== 翻訳は以上 ==

ここで「単一性」というのはunicityのことだ。大文字TのThisとかThat、あるいはOnenessとかConsciousnessとかNon-DualityとかAwarenessとかItとか呼ばれているものと同じと考えていいと思う。

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