科学の限界 リチャード・シルベスター

 
リチャード・シルベスターのウェブサイトのエッセイを翻訳して紹介するシリーズの三回目。

== 以下、翻訳 ==

科学、神秘主義、無条件の愛

非二元性というものを認識すると、あるいは同じことだが解放が起こると、人生と呼ばれている何かに関して自ら選択をするような、自律性と責任をもった人間というものが存在していないということが認識される。さらに、すべては無から生じていること、この驚嘆すべき現象世界の中心には空 (くう) があることも認識される。この空は、たとえば仏教や道教やヒンドゥー教のような多くの教えにおいて、そしてキリスト教においてさえ、認識され、伝えられてきた。このことは公然と伝えられることもあった。そして、時にはこっそりと伝えられることもあった。それは、聖職者たちが恐るべき権力を振り回したために、このことについて語ることが非常に危険だった時代がかつて何度もあったからだ。しかし今日では、これまでなかったような現象が見られる。選択ができるような人間は存在しておらず、すべては空から生じるという見解は、いまや科学によって裏付けられるようになっている。

神経科学の進展によって、私たちの経験の中心に、統合され自立している人間が存在していることはありえない、ということがはっきりと示唆されている。そのため、多くの心理学者が、自由意志というものは幻想だということを認めている。量子物理学者によると、この世界では、物質の最も微小な要素は崩壊して単なる振動するエネルギーに変わってしまい、すべてのものは、言ってみれば、音から出現する。ヨガの教えでは、根源的なマントラである「オウム」が、宇宙の最も初めに現れた原初の振動であるといわれている。はじめにことばありき、そしてそのことばはオウムだったと。

とは言え、このように科学と神秘主義が歩み寄っているとしても、唯物的な科学の視点と、意識の本質に関する非二元の視点は同じものではない。科学においては物質が主要な関心であり、意識は付随的な副産物か、あるいは物質の「創発特性」であるとされる。科学では、人間は物質的な構造物であり、意識はそこから偶然出現したとされる。脳の細胞、ニューロン、化学物質、電気インパルスといった構造が次第に複雑になるにつれ、意識が出現したのだと。だが、解放において、存在するのは意識だけだということが認識される。それは、存在するのは空だけであり、そこから物質的な現象を含むすべての現象が生じているという認識と同じである。しかし、科学がこれを発見することは決してないだろう。このことは、人間が脱落したときに起こる直接的な認識によってしか発見され得ない。

そしてまた、科学はその方法ゆえに、空の究極の性質が無条件の愛であることを理解することもできないのだ。

== 翻訳は以上 ==

と訳してみると、リチャードの魅力がこのエッセイではあまり感じられないような気がする。

トニーも結構そうなのだが、最近の科学的な発見が、非二元の伝統的な理解を裏付けつつある、ということを嬉しそうに話す。僕としては、科学が追いつこうがなんだろうが、それはどちらでもいい気がする。平成の吉永小百合と言われても、はて?となってしまうような感じに近い。

戦後の科学の発展期に人生の大部分の過ごした人たちに特有の科学幻想のせいかな、などと勝手に思いながら、これを読んだ。このシリーズは次が最後。

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