失楽園と復楽園 リチャード・シルベスター

 
リチャード・シルベスターのウェブサイトのエッセイ(?)を翻訳紹介している続き。

===以下、翻訳===

失楽園

現在では多くの人が、以前のような宗教の相互敵対的な傾向から抜けつつある。そして、すべての宗教やスピリチュアルの道の中心には共通の核が内在していることを確信し、その核を探し求めている。表面的には驚くほどの違いがあるが、そうした違いにだけ焦点を当てるということはもはやない。そのかわりに、その下に隠れている共通の真実を見つけようとしている。キリストの磔、象頭の神ガネーシャ、父なる太陽と母なる月、聖餐式、頭蓋骨のネックレスをつけたカーリー女神、マンダラ、回転舞踊をするスーフィーの神秘家、黄金の仏陀像、メディスンホイール、川の女神イシス、といった多様な姿を結びつけるものが何かあるに違いない、と人々は感じている。

非二元性や一体性というものが、すべての宗教やスピリチュアルな道の静寂の中心に存在しているのだが、そのことが認識されることは稀だ。人は全体性の中に生まれるが、幼いときに自意識を身につける。そして、その過程において、分離と喪失の感覚が生じる。何らかのかたちで、人は楽園から追放されたように感じ、それを意識的に認識するかどうかは関係なく、再び完全になろうとして人生を費やす。楽園に戻るために。人には素晴らしい想像力があり、物語を語る途方もない能力もある。宗教や、スピリチュアルの道や、預言者と神々と聖人と聖なる狂人の物語、そうしたものの壮大な系統樹は、人々の惨めで絶望的な探求の結果として生まれた。

復楽園

私たちの探求は絶望的である。それは、私たちが楽園から追放されたことは一度もなかったからだ。私たちが戻ろうとしている楽園は、常に私たちのもとにあった。だが、分離した自己が存在することによって隠されていたのだ。楽園を見つける必要はない。分離の感覚がなくなればいいのだ。そうすれば、〈これ〉が最初から楽園なのだということが認識できる。ただ、分離した自己はそれ自身を手放すことはできない。それは、その自己というものが実際は存在していないからに他ならない。存在していない自己には、リアリティを認識することができないのだ。

眼は自らを見ることができない
見ることができるのは鏡に映る色あせた眼だけ
自己は自らを見いだすことができない
見いだすことができるのは夢のなかの色あせた像だけ

それにもかかわらず、何によって引き起こされるのでもなく、自発的に、見せかけの自己が脱落することはある。人の死の中で、全体性、単一性、非二元性が再び認識される。人が生きている間に、見せかけの自己が脱落することはありえるが、そうならなくても別に構わない。それは、身体が死ぬ時には、いずれにしても解放だけがあるからだ。ラメッシ・バルセカールは、死ぬ前にこう書いた。「究極的には死とは何を意味しているのだろうか? 死とは、日常の暮らしという苦闘が終わるということだ。死は二元性の終わりなのだ」

===翻訳は以上===

このシリーズは、あと二回ほど続く予定。

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