リチャード・シルベスターのQ&A

リチャード・シルベスター(Richard Sylvester)という人がいる。イギリスの人で、ヨーロッパでミーティングを開いている。一般的にトニー・パーソンズの系列と見られている。実際に彼自身も、非二元の優れた表現者としてトニー・パーソンズの名前を第一に挙げている。

リチャードの使う用語はトニーのものに近い。だから、トニーの表現に慣れていると珍しいことはない。そのせいで、これまで個人的にはあまり注目してこなかった。だが、何のきっかけか忘れたが、最近彼のウェブサイトや動画を見始めた。すると、トニーとは全然違う面もあることに気づいた。

何が違うのだろうか。たぶん、それはリチャードのリラックスの度合いか、あるいはとぼけたようなユーモア、それから言葉の上では鋭いが眼差しがとても優しいところ、そんなところだと思う。

こんな人だ(左側)。

彼のウェブサイトにあるQ&A(Questions and Answers)を翻訳して紹介する許可をもらったから、紹介したい。

==以下、Q&A==

Q. 人の人生はあらかじめ定められているのでしょうか?

A. いえ、人の人生が最初から決まっているということはありません。なぜなら、人生も人も存在していないからです。私たちの人生はあらかじめ決まっているのだろうかと考え始めると、ストーリーに引き込まれ、いま目の前にあること、〈これ〉という奇跡から離れてしまいます。人生はあらかじめ定まっているという考えが、考えられる多くの異なるストーリーのうちの一つにすぎないということは指摘してもいいでしょう。いろいろある中で、なぜ一つだけを選ばないといけないのでしょうか?

人生も人もないということが認識されると、未来や過去に関するストーリーに夢中になることがあまりなくなります。そしてその時に残るのは、この絶え間なく変化する意識の遊戯です。

Q. でも、私は、誕生から死までの間に人が経験すべきことは、生まれたときに既に決まっていると思います。

A. そのストーリーは多くの人に好まれています。他にもそういうストーリーはありますね。たとえば、「引き寄せの法則」を理解して実践することで人は自分の願う現実を創造できるとか、よいカルマを蓄積し、悪いカルマを避けるべきだとか。

でも私が言っているのは、人は存在しておらず、したがって人生もなく、自分の現実を創造することもなく、カルマを蓄積することも回避することもない、ということです。そして誕生も死も時間も存在していません。存在しているのはこれ、一なるもののなかで現象として顕現している何か、今起こっているこの無条件の愛のほとばしりです。

Q. では、なぜ人々が存在しているんでしょうか? きっと、一なるものは人間として存在するという経験がしたいんでしょう。

A. マインドは時間の世界、原因と結果の世界に生きています。ですから、マインドは「なぜ?」という疑問を持たないではいられません。マインドの避けがたい運命です。マインドは、意味や目的に関する質問によって自らを楽しませることが大好きです。そして、その答えをどんどん複雑なものにしていくことで、不確かさを抑圧するのです。答えは、宗教的なものかもしれないし、スピリチュアルなもの、あるいは実存的なものかもしれません。そうした答えは、計り知れないほど多様で多彩です。そして、しばしばお互いに矛盾しています。もしそうした答えの中で気に入るものがあるのなら、それもいいでしょう。ですがその答えを選ぶことによって、たぶん存在の喜びは失われ、この瞬間は影のようなものになり、エネルギーはなくなり、意味や未来についての憶測という覆いを通してしか経験できなくなるでしょう。

あなたは、意味や目的や努力といったことについてのストーリーを抱えていることもできるし、あるいは、実在を、そよ風に吹かれてサラサラと揺れる葉のシンプルさを味わうこともできます。でも、その両方を楽しむのは無理です。

Q. リチャード、いくつか質問があります。初めに、あなたが解放(liberation)と呼ぶ出来事は、ある時にある場所ではっきりと起こりました。似たようなことが起こった人たちに出会ったことはありますか? そして、もしあるとしたら、以前よりもそういうことは増えているでしょうか?

A. トニー・パーソンズはその出来事をこう説明しています。(彼が公園を歩いていたとき、公園を歩くということだけがありましたが、歩いていた人は誰もいませんでした) ネイサン・ギルは出来事についてこう述べています。(彼は自転車で道を走っていましたが、そこにあったのは自転車で通りを走るということだけで、誰も自転車に乗っている人はいませんでした) 私は出来事をこう描写します。(私は田舎町を歩いていましたが、田舎町を歩くということだけがあり、歩いている人はいませんでした) 他にもこういった出来事について語っている人はいます。解放はこのような出来事とともに起こることもあれば、出来事の後に起こることもあれば、まったく起こらないこともあります。何の出来事とも関係なく解放が起こることもあるかもしれません。これについては法則は何もありません。というのは、解放というのはすべてを包括するものであり、どんな可能性も除外しないからです。でも、こういう「解放という出来事」のストーリーを耳にすることについて厄介なのは、何かが起こらないといけないという期待が生じてしまうということです。その期待によって、探求がまた続いてしまうことになります。ただ、もしそういう出来事に対する期待が生じるのであれば、それは生じます。同じことを繰り返しているようで申し訳ないのですが、このことが探求ということにまつわる絶望を表しているんです。この見込みのなさが認識されると、もしかしたら少しはリラックスしたり安堵したりするかもしれません。

こういう出来事を報告する人の数は以前よりも増えてきています。これが、出来事自体が増えていることを意味しているのか、それともこれについて語る人が増えているということなのかは、知ることができません。出来事が起こっていない人たちの中にも、解放というのは常に最初からそこにあったのだという認識に緩やかに移行するケースがあります。

Q. 私の二つめの質問は、解放と死の違いについてです。もし解放と死が等しいものであるなら、たとえばあなたの認識について話を聴きにくることに何の意味があるのでしょうか? 解放に「意味」がないことは分かります。でも、もしこの身体・精神が死によって消滅するのであれば、その死の瞬間に起こることを理解するために何かをするのはなぜでしょうか?

A. 解放と死の違いはこうです。解放の場合は、夢のストーリーが続くなかでそれが夢のストーリーであることが認識されます。死の場合は、夢のストーリーが停止します。認識について私の話を聞くことに意味はありませんし(認識は「私のもの」ではありません)、死に際して何が起こるか理解しようとすることにも意味はありません。でも、繰り返しになりますが、もしそうしたことが起こるのなら、それは起こります。言い換えると、すべてのことは全くあるようにあるのであって、違うようにはなりようがないということです。

Q. あなたのウェブサイトを読んでいたのですが、その中に、「私」にいま起こっていることに大いに関係することが書いてありました。

私は知覚が自然に転換するという体験をしました。いま、私というのはこの身体・精神組織ではなく、すべてを経験する気づきそのものなんだということが明確になっています。このことで私はとても自由を感じています。「今」しかなく、過去と未来はいま生じている思考にすぎないということも明確です。そして、すべてのことはただ起こっているということも明らかになって、そのことで、責任感や罪悪感が劇的に減りました。

それでもやはり、分離の感覚はまだあります。あなたが書いていた、荒涼とした場所に希望も助けも目的もなく存在していたという期間のことが理解できます。探求を終わらせるために自分に出来ることは何もないということは分かります。でも、私は探求が終わるのを今でも待っていて、こういう状態は時にとても苦しいんです。

この私のどうしようもない状況について、何か言っていただけたら嬉しいんですが。

A. 覚醒が起こると、行為者は存在していないということ、現象として起こることはそれが何であれただ展開しているだけだということが明確に理解されます。あなたはそれをはっきりと言い表していましたね。ただ、覚醒というのは、すべての生じるものが空であることを認識することではありますが、すべてものの豊かさ、存在の愛に満ちた絶対性は覚醒においては認識されません。このことによって、まだ何かもっと認識されるべきことがあるという感覚が生じますが、そのために「私」ができることは何もないということも同時に理解されています。そのことで、あなたが今あるような、寂寥としていて、助けも希望もなく、解放が起こるのを待つという感覚に陥ることになります。

私はアドバイスということはしないのですが、もしアドバイスをするとしたら、リラックスして、日常的なシンプルなことで自分な好きなことを何でもいいので楽しんだらどうでしょう、ということになるかもしれません。公園を歩いたり、コーヒーを飲んだり、映画館に行ったり、運転をしたり、何でも楽しめることならいいのです。あなたは、私がこのようなことを言うのは矛盾だと思うかもしれませんね。それはもちろん、こうしたことをするかしないか選ぶことができるような人は誰も存在していないからです。でも、もしこういう楽しめるようなことが私たちに起こるとしたら、本当にありがたいことです。

== Q&Aは以上 ==

翻訳の許可をもらうためにメールをしたのだが、リチャードからの返事には優しい雰囲気があふれていた。ルパートもトニーもそうだ。いつも優しい。

これがいまの僕には面白い。人間など存在していない、行為を選べるというのもただの幻想だ、神も仏もあるものか、という表現の表面上の厳しさと、優しい眼差し、メールの行間から感じる愛情、その差が面白い。

このQ&Aでも、最後のところでリチャードが言っていることは興味深い。

わざわざ書かなくてもとは思うが、いわゆるスピリチュアル系の人たちで愛を語りながら目が全く怖いままというパターンをいくらか見かけたことがある。そうしたあり方との対照は見事だ。これはただの投影だという気もしないでもないが、そういう優しさに触れられることの幸運は、素直にありがたいと思う。

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リチャード・シルベスターのQ&A」への2件のフィードバック

  1. Om Sri Sai Ram

    な~る~ほ~ど~、覚醒(チラ見)とその後の解放(安心・平安?)という認識があるんですね。
    たぶんあんまり頭よくないので違ってたらすみません。

    彼の場合、覚醒って、空・まったくないことの認識で、解放は愛・すべてとしてあることの認識ということですか。すごく乱暴に言えば。

    でも、どうちがうんだろう?笑

    言葉ってホント不自由だと思うのですが、こういうふうに何(どういう実質)がどういう言葉に呼応するかという共通認識が、言葉をいっぱい使ってもがいてるうちにだんだんなんとなく深まっていってるんだなと思いました。

    いつも情報ありがとうございます。

  2. 古野さん、コメントありがとうございます。

    僕も翻訳しているだけで、実際これが何を指しているのか分かりません。分からないので、本当になんとも言いようがありません。

    頭のよさそうな沢山の人たちがずっと表現を試みているわけで、その努力はすごいなあと思いますが、それでも全然伝わらないというのはそっちの方がすごいと感じます。

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