コミュニティとしてのSAND

 

昨年(2011年)のカリフォルニアでのSANDカンファレンスで、参加者が口を揃えて言っていたのが、SANDにはコミュニティという側面があるということだ。僕も同じように感じた。

今回のSANDヨーロッパでも、そう感じた。

誰かが、これはSeekers Anonymous (AA=アルコホーリクス・アノニマスの探求者版) だと言ったとき、そこにいた人たちは大いに頷いていた。

慰め合うことが必要なほど打ちのめされているのか、といえば、一見そうは見えない。が、少しでも話してみると、自分と共通する部分、探求者特有の徒労感を抱えていることが分かる。

今回、最終日午後にワールドカフェ形式で語る場が設けられた。SANDでは初めてのことらしい。参加してみたが、どこの国から来たのかもお互いに分からない、性別も身体の大きさも年齢も肌の色も、何も共通することがないように見える人たちが5~6人テーブルに集まると、そこには仲間意識があることが感じられる。誰かが最初の言葉を発するよりも前にだ。

話し始めると、家族や友人に理解されないことが、ここではほとんど詳しい説明もなしに了解されていることに気づく。

もちろん、英語ネイティブでない国の人たちは(僕もだが)、言いたいことがきちんと言えないもどかしさを見せるのだが、それでも言いたいことはすぐに了解されているようだった。

このようなことはどんな分野でもあることなのだろうとは思う。が、おそらくノンデュアリティやアドヴァイタに関心がある人たちというのはかなり少数派で、それだけにこうした場におけるつながりが貴重なものになっているのだろう。

あとは、SANDがなぜオープンなコミュニティになっているのかを考えると、正解を見つけようとしているわけではなく、SANDが様々な表現を楽しんで祝福する場として作られているということが大きいと思う。

一方で、特定のグルの帰依者の人たちと今回少し話す機会があったのだが、彼らはある意味で自分の正解(「正しいグル」とその教え)にすでに達しているため、他の道や表現に興味を示さない。食事の時間も仲間でかたまっていた。そういう人たちもいた。アメリカのSANDではそうした光景をあまり見なかったから、今回は特に目立って見えたのかもしれない。

いずれにせよ、こういう形でお互いの顔が見える成熟したコミュニティが存在しているというのは嬉しいことだ。

広告

コミュニティとしてのSAND」への2件のフィードバック

  1. 少し思うところがあったので。
    私は現在海外に住んでいて、わりとこの手のイベントやリトリートに参加するのですが、そこで仲間意識みたいなのはほとんど感じたことがありません。逆に一体感やワンネスみたいなのをあまり強調されると、どこか自分が引いているのが分かります。ではなぜこうしたイベントに参加するのかといえば、やはりこうした自分の障壁がなくなった状態というものを体験したいからなんですが、、、

    コミュニティについてはステファン・ボディアンが確か本のなかで、問題点を指摘していたと思います。こういった場所で共感できる仲間や自分の居場所みたいなものを見つけ、それで結局満足してしまうみたいな。
    実際に私もいろいろ出てみて感じるのは(ちょっと皮肉ぽいかもしれませんが)、結局この手のコミュニティが、仕事も子育ても終えて心にどこか空白を感じている人たちの互助会的な場所になっているということです。それはそれで悪いわけではないし、最初からそういうものを求めていたというのであれば、まったく否定はしませんが。

    家族や友人に理解されないということは、この種の道を追求する者にとっては避けがたい現象であって、むしろ孤独感は必然ではないかと感じています。今これを書いてて不思議に思ったのですが、どうして人って(私も含め)孤独感を嫌ったり避けたいと思うのでしょうかね。よく考えると不思議ですね。

    なんか思いつくことをつらつらと書き綴ってしまいました。失礼いたしました。

  2. ごまさん、コメントありがとうございます。

    おっしゃること、分かります。僕自身、仲良しクラブ的なノリは苦手な方で、互助会的なものを利用して逃避することには批判的です。軽蔑さえしていました。

    ただ、今はだいぶ弱っているからなのか何なのかは分かりませんが、そういう場があることが素直にありがたいなあと感じています。

    目の前のことに直面することを避けているという意味では、厳しい修行に没頭したり、何かを否定して特定の立場(概念としての非二元等)にあり続けることも、疎外感や行き詰まり感から目を逸らすための行動になりえると思います。

    SANDのような場では、自分がそうした狭いポジションにいたなあということに気がつくことも多々あります。なので、快適なことばかりではないですが、厳しいことを言い合える(または厳しいことを言われなくても厳しいことに気がつく)場としても、痛みを分かち合う互助会的な場としても、自分にはいま必要だなと思います。

    と、理屈をこねても、結局いま弱っているということにつきます(苦笑)

コメントは受け付けていません。