先生であるという呪い

 
このことについては以前も何か書いたような気もする。が、よくやってくる思考だから、また書いてみようと思った。

先生という存在は、とてもやっかいなものだという気がする。

リック・リンチツは、教師、先生という存在について、著書No You and No Meの中でこのように言っている。

「扉をつい開けっぱなしにしてしまう教師が大勢います。その扉を閉じて、人にできることはまったく何もありません、ということをはっきりと伝えてしまえば、教師は不要になってしまいます。生活のために教えている教師がいるとしたら、そのように伝えるのは好ましいことではないはずです」

生徒が1人しかいない状態よりも、100人いる状態の方が教師にとって望ましいとするならば、メッセージはそれを反映し、場合によっては歪められたり、あるいはある部分だけが強調されたり逆に隠されたりするかもしれない。

ちなみに、リック自身は現役の医者で、医学の分野ではまあまあ知られているらしい。Youtubeで彼の名前を検索すると、サットサンの動画と一緒に、ヨーロッパの癌か何かの学会でスピーチしている動画も出てくる。

しばらく前のインタビューの中で彼は、ミーティングをしようという意図は自分ではもっておらず、誰かが話してくれないかと依頼してきた場合だけ対応する、と言っていた。実際、最近は年に1、2回だけのようだ。しかも、生まれたばかりの孫と過ごす時間がもっと欲しいから、今後は頼まれてもトークができるかどうか分からないと言っていた。

これは、教師として活動する必要がない人の典型のように思う。

このことについて考えていたとき、ロジャー・リンデンのことを思い出した。彼はサイコセラピストであり、またフェルデンクライス・メソッドのプラクティショナーでもある。

最初彼のことを知ったとき、僕はこう思った。「悟った人が、なぜ精神療法とかボディワークをするんだろう。そんなものは、夢の中のストーリーをいくらかマシにするにすぎないのに。彼は本当に悟っているんだろうか」と。

それで初めて会ったとき、ロジャーに直接そのことを質問した。彼は「クライアントが結構来るから生活の助けになる。それに人がより健康になったり気分よくなったりするのを見るのは楽しい。ノンデュアリティも、それはそれで、そのことをシェアするのは楽しい。だから両方やっているんだよ」と答えたと記憶している。

そのときは僕は納得しなかったのだが、リックが言っていることを考えてみれば、ミーティングに人が来ても来なくても生活には影響しないというのは、明らかな利点だ。妥協する必要が生まれる余地が少ない。だから、ロジャーが収入源を他にもっているということは、ありがたいことだと今は思う。

収入の面だけでなく、別の分野で成功し、そのことに自分が満足しているということも二人に共通している。

ちなみにトニー・パーソンズは今は「先生業」だけだが、以前は建築会社か何かを経営し、フェラーリを乗り回す程度には成功していたらしい。先生として「成功」する必要を感じているようには、いまは見えない。

リックもロジャーも先生っぽい話し方はしないし、「教えを授けてあげましょう」という視線は全く感じない。授けるも何も、教えられることなど何も本当にないんだよ、というメッセージが全身からあふれている。誰か(ルパートだったか?)がグルの時代から友人の時代へというエッセイを書いていた気がするが、まさに友人という感覚だ。

友人ではなく先生である必要があるということは、だから呪いのようなものだろうと思う。

エックハルト・トールの講演に数千人集まったとかいう話を聞くと、その呪いの恐ろしさを感じてしまう。

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先生であるという呪い」への2件のフィードバック

  1. 「グルの時代から友人の時代へ」というのは、いい言葉ですね。
    「先生であると言う呪い」とは「先生を追い求める呪い」「生徒であると言う呪い」と表裏一体のような気がします。

  2. resonanz360 さんは、悟りたいんですか?それとも、先生評論家になりたいんですか?

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