トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その2

 
トニー・パーソンズのNothing Being Everythingからの抜粋(Book Extracts)を翻訳するシリーズの二つ目。何人かの方から励ましのコメントをもらったため、急にやる気が出て、珍しく二日連続の投稿。

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Q. こちらに来ることができて、とても嬉しいです。存在(being)についてお聞きします。昨日、とても重要なことを学びました。家に帰る途中で、こんなことを思ったんです。「あれ、自分は今、家に着いてゆっくりするのをすごく楽しみに待っているぞ」と。それで私は、自分自身を二つに引き裂いていたということに気がついたんです。私がそういう風に感じていたというのは、家に帰る途中という状態が、単純にこれとして存在しているという至福よりも劣っているものだ、ということを意味しているからです。それで、こう自分に言いました。「ちょっと待て、ロバート。お前はここにいる。未来の何かのために今の自分を抵当に入れるのは止めろ。ノーザンライン (訳註: ロンドンの地下鉄) に乗っていることには何の問題もないんだ」

A. はい。でも、楽しみに待っていたというのは、あなた自身の行為ではありません。ただ起こったことです。そうやって楽しみに待つということもまた、存在なんです。

Q. ただ起こった?

A. 探求者というものは、自分の状態をどうにかしたいとか、あるいは自分がこうなっていると思っている状態から離れられるような別の状態に移りたいといったことで、何かをしなければいけないと考えています。それが探求者の問題です。

Q. でも、あなたは左脳拷問者ですよね?

A. え、私が?(笑)

Q. 間違いなくそうです。

A. ああ、じゃあ、私は左脳拷問者です(笑)

ということは、私はアムステルダムではターミネーターで、ここでは「左脳拷問者」ということになるのかな(笑)

Q. 存在しているのは気づきだけだと言いましたね?

A. そうではなく、あるのは存在だけです。気づきは、存在の中で、起こったり起こらなかったりするものです。

Q. ただ存在だけがあると。あと、気づきというものは感覚の一つだと言っていました。

A. ええと、気づきというのは、私の理解では過渡的な状態で、そこにいたり、いなかったりするような一種の場所です。気づきもまたストーリーの中に存在しています。

Q. なぜこんなことを言ったかと言うと、こんなことを考えていたからです。あなたがそちらに立っているとき、私にはあなたの体の左側が見えていました。その他に、自分の肩が少し張っていることにも気づいていましたが、この部屋の中でそのことに気づいていたのは私だけです。

A. そうですね。

Q. つまり、私たちの気づきというのはそれぞれ隔てられているように思います。

A. ええ、そうです、そう見えます。それで私が言っていることというのは、あなたが今言ったようなことすべては、単に起こっている何かなのだということです。それは肩の張りであったり、トニー・パーソンズの左側だったりします。そういったものが存在するために気づきが必要だということはありません。でも探求者は、気づきがないとそうしたものは存在できないと考えます。

Q. そうは言っても、こちらで起こっていることは、そちらで起こっていることとは少し異なります。

A. もう一つ私が言っているのは、「こちら」も「そちら」もないということです。見かけ上の存在にとっては、ここという場所があったり、「こちら」と「あちら」というのがあったりするように見えます。でも、「こちら」も「そちら」もありません。張った肩というのは、ただ単に張った肩があるということであり、身体の左側も身体の左側としてただあるだけです。すべては、存在です。

Q. でも、それぞれが異なる情報の小さなかけらで、そういうものが沢山あります。

A. そうですね。たしかにどれも異なって見えます。でも、これは一元性がすべてのものとして存在しているということです。それぞれ違っているように見えます。こうしたことすべては、一元性がただ生じているということです。すべてのものは、存在です。

Q. ひっきりなしに私たちのところにやって来るいろいろな情報をどうしたらいいですか?

A. どうもしません。

Q. どうもしない?(笑)

A. 何かをできる誰かというのは存在していませんし、しなければいけないことも、知らなければいけないことも何もありません! 何かができるような誰かというのが存在したことは一度もありません。自分は何かできるとか、自分は何かをすべきだというような考えは完全なる思い違いであって、そういう考えがあるせいで、人間は分離の感覚にしっかりと結び付けられています。なぜ何かをする必要があるのでしょうか? ものごとはただ起こっているだけです。すべては完璧に完全であり、何も不足しているものなどありません。

Q. じゃあ、私たちは何に気づいているべきなんでしょうか?

A. 気づくべきことは何もありません(笑)。気づいていないといけない、というような義務がまた出てきましたね。気づきは一時的な状態です。ただものごとは起こるだけで、それがあるだけです。何かに気づいているというような観念は罠です。気づきは他の存在を必要とします。だから、気づきは二元性のストーリーの中にあります。他者というものは本当には存在していません。

Q. そうは言っても、起こることというのは変化しますよね。瞬間瞬間に変化します。不変ではありません。

A. そうです。確かに変化するように見えます。でも、すべてのことは変化しているように見えるだけであり、違っているように見えるだけであり、他のものと区別できるように見えるだけです。起こっていることはすべて、存在が見かけの上で生じているだけです。

Q. では、不変なものはどこにあるのでしょうか?

A. 不変なのは存在です。存在はどこにもなく、またあらゆるところにあります。起こっていることというのは、存在が現れて、動き回っているということです。存在があるものすべてです。

Q. では、起こっていることとの関係で言うと、私はどこにいるのでしょうか?

A. あなたはいません。存在している人は誰もいません。関係というものはありません。あるものすべては存在であり、「私」という概念はその存在の中で生じます。

Q. うーん(笑)。じゃあ、それを知って何になるんですか?

A. まったく何の価値もありません。ここではまったく何も提供されていないんです。何の価値もありませんし、何も提供されません。この場で起こりえることのなかで、もっとも素晴らしいことがあるとしたら、それは、何も起こらないということです。もしここを出る際に何かを得て帰るのであれば、あなたはまだ何かを持っている誰かだということになります。「いま私にはこれがある。これは私のもので、これで何かをしよう」と。このメッセージを本当に聞くということが起こったときには、得ることができるものも知ることができることも何もない、ということが理解されるでしょう。起こることが見かけの上で起こり続けるだけです。

どこも行くべきところはありません。目標もありません。ご褒美はありません。賞品もありません。あるものすべて、それがこれです。でも、起こっていることがただ起こっているというのと、起こっていることは自分に起こっているという感覚がそこにあるのとでは、無限の違いがあります。

== 訳は以上 ==

トニー・パーソンズのメッセージに関して、一つ文句があるとしたら、それはこの最後の部分についてだ。明らかに、ものごとがただ起こっているという認識がある状態が、そうでない状態よりも望ましいこととして語られている。エネルギー的なシフトによって個の分離のエネルギーが弱まるということを彼が語る際も、分離の解消が好ましいこととして語られている。

そのことが、分離の状態 (分離があるという思考と同一化している状態) にある身からすると、明確にご褒美や目標として意識され、未来志向、移動志向、達成志向を強化することになるように思う。

そして、トニーのこの部分を、ネイサン・ギルが最近の動画でほぼ名指しで皮肉っていた。エネルギー的シフトなど要らないと。

と、今日もいろいろと思考はめぐっている。

その3はこちら

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トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その2」への4件のフィードバック

  1. 連日の投稿、ありがとうございます。

    私としては嬉しいのですが、ヒロさんが燃え尽きると困るので、やる気を出し過ぎずに、どうかマイペースで続けて下さいね(笑)。

    今回の投稿の最後にヒロさんの述べておられること、私も同感です。

    まあ、トニーのようなラディカルな非二元の立場を突き詰めていけば、言葉のレベルではどこかで矛盾が生じてしまいがちなのではないかと思います。

    非二元の言説は、存在が存在について言及するという点で、どこか自己言及のパラドックス、さらにゲーテルの不完全性定理( http://bit.ly/b0PvD )を連想させます。

    以上、私もいろいろ思考を巡らせてしまいました。

  2. 頭がぐちゃぐちゃになりました。爆

    翻訳してる方の前で言うことじゃないかもしれないけどなんか言葉の限界が。。。。

    ひとつの言葉があってもそれが意味することや性質が知らない間に変わってるんだけど、単語としては同じのを使ってるからメビウスの輪みたいにたどりながら確認してるつもりがいつの間にかだまされてる気分です。

    なんか、走ったり、泳いだりして脳をつるつるにしたいような。

    たぶん、トニーパーソンズからしたらちょ~単純なことを馬鹿みたいに垂れ流して言ってるだけなんでしょうけど、
    それをはたから聞いて理解するとなると至難のわざですね。

    西洋人はこういう理詰めの問答みたいなの好きなんでしょうね。

    なんか、インドのアドバイタを説く人はそれが出てくるとこの文化の違いというのもあると思うけど、
    何かそこに感動とか愛とかあるような気もしますが気のせいかな。

    彼のも音とか表情とか別の情報を受け取りながらこのQ&Aを聞くとまた理解が違うんでしょうね。

  3. トニー・パーソンズはもちろん違いますが、西洋人のアドヴァイタ系の先生たちの中には、バクティ路線の人たちもいます。たまたま僕はそういう路線には興味をもっていませんが、むしろそういう人たちのほうが人気はあるのかなという気もします。

    どうせ何もそこに到らせることはできないとすれば、トニーの言葉を前に唸っていようが、ラマナの写真の前でうっとりしていようが、どうでもいいんだろうなあと思います。

    ちなみに、生のトニーは、Q&Aを字で読む時よりも、むしろ突き落とし、突き放し系の印象です。短くパッと答えて(あなたは存在していない。だからできることなどあるわけない等)、すぐに椅子に戻って無言で宙をにらんでいたりするので、絶望的な気分になります。冗談も多いのですが、それがまた「あ、あれは自分のことか」と後から気づいて、また落ち込んだりします。

  4. Q&Aよりも実際の彼は突き放し系ですか、、、、、それでもそういうのを好む人たち集まるっていうのがすごいですね。

    いたぶられたい人が来るなら、なんかいわゆるいい人たちがそこに集ってるのでしょうか?

    それか、そういう彼に爽快感を感じてニヤニヤしたりしてる人もいるのかもしれませんね。

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