トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その1

 
トニー・パーソンズには何冊かの著作がある。Nothing Being Everythingというのが最新の本で、ヨーロッパでのミーティングの対話集になっている。

その本の抜粋が、彼のウェブサイトに掲載されている(Book Extracts)。トニーの許可をもらったため、数回に分けて翻訳してみたい。これは最初の部分。

===

Q. 何かを探すことによって、まさにその探求のせいで分からなくなっている、という話が昨日ありました。正確な言葉は違うかもしれませんが。本当にこれは現象の見事なゲームだし、ある意味では注意が逸らされるゲームですよね。このゲームによって、あらゆるものがいかに同じ源泉から現れているのか、ということに気づけます。

A. 同じ源泉、そうですね。その源泉のどれほど小さな部分も、他と同じであろうとはしません。もしくは、自分が同じ源泉の一部だとは考えていません。

Q. でも、こういうこと全部が遊戯にすぎませんよね。いわゆる神聖なる遊戯というか・・・

A. まさに存在 (being) の神聖なる遊戯です。そして、存在の方では、このことを誰かが理解するかどうかといったことにはまったく頓着していません。それは、存在以外には何も存在していないからであって、分かっていないという状態もまた存在だからです。

つまり、存在が苦しみ、存在が笑い、存在が探し、存在が見つけ出し、存在が見つけないということです。存在以外のものは何もありません。もちろん、存在のそうしたありようのすべてが、まったく完璧に完全です。それしかありませんから、それがあるものすべてです。そして、その完全性の中に、自分は完全性とは異なるものだと考えている何かが存在しているわけですが、それもまた存在であって、存在が分離という形態をとって現れているものです。

存在は何も必要としていません。ですが、存在の中で、必要も要求も要らないんだ、ということに気づこうとする必要や要求が、見かけの上で生じます。

Q. こういったことの神秘は計り知れないものですね。本当に不思議です。

A. このことに関する探求は、私たちが生きている世界に反映されています。それは、私たちのすることはすべて、実際のところはこの探求だからです。宗教のすべて、人間がおこなう見かけ上の努力のすべては、この不可思議を探求するものです。

Q. それは分離感の解消ということですか?

A. 分離していない状態を探求するということです。探求者にはこのことがわかりません。存在は時間を超えているからです。存在というのは永遠にあるということであって、それは時間を超越していて、空間も超越していて、達成できるかどうかといったことも超越しています。というわけで、獲得しようとしている対象を獲得することはできません。なぜなら、それはあるものすべてとして既にあるからです。

Q. ちょっと納得しがたいことがあります。私にとってどうしても受け入れられないのは、スピリチュアルな探求が、お金やセックスや権力のようなものの探求と比較して、優れてもいないし、より重要でもないし、洗練されてもいないということです。

A. それは本当に事実なんですよ。欲望はどのようなものであっても、究極的には帰還を求めるものです。そしてこの逆説、あるいはこの謎について奇妙なことは、すべての行為、たとえばあらゆる種類の探求、手を差し伸べるすべての行為、人間がおこなうすべての努力、教会や帝国を築くといったようなことは、そのすべてが存在なのだということです。純粋に生き生きとしているものです。これはとても奇妙な逆説です。

Q. 古代のヴェーダの聖典か何かに、そのことについて詳しく述べていたり、なぜそのようになっているのか説明していたりするものがあるでしょうか? たとえば、バガヴァッド・ギータでは、これはひとつの試験なのだと説明しているようですが・・・

A. いいえ、理由というものはありませんし、試験も選択も存在しません。伝統的な説明の基底にあるのは、一元性 (ワンネス) が二つになることを決めたとかいったことであり、もし二つになることを決めることができるのであれば、また一元に戻ることも選べるというようなことです。そんなものは、時間や、原因と結果といったものにもとづく作り話です。

これまでに選択ということが行われたことは一度もありません。選択とか動機とかいったことは、時間の中で意図的に二元性という地点から一元性という地点へと移動できる何かが存在している、という幻想です。これまでに存在以外に存在したものはなく、存在とは永遠の無、永遠のすべてです。存在がどこかに向かうこともなければ、どこかにあったこともありません。どこか、というような場所はそもそもありません。見かけを除いては、時間も空間も存在していません。これ以外には何もなく、起こっていることは何もないのです。

Q. 質問というものは分離という視点から生じるもので、ある意味でそもそも答えられないものだということは理解しています。質問というのは答えることができないものです。というのは、分離という観点から出てきたものだからです。全体性というものを垣間見るとき、質問は生じないものです。まったく生じません。知る必要というものはまったくありません。すべてはただあるからです。とすれば、質問というものはただ生じるループでしょうか。

A. そうです、質問はただのループです。あなたが言うとおりで、「なぜ」という質問は分離から生じて、それによって探求も起こります。そして、誰も存在していないときにはループもなければ質問もありえないというのも、そのとおりです。質問も生じなければ、答えもありません。知る人もいないし、知られるものもありません。なぜかを尋ねる人もいません。

Q. でも、なぜという質問は、分離という視点からすれば、すごく魅惑的な質問ですよね。

A. ああ、それはそうです。分離という状態にあるときは、なぜという質問に夢中になります。そうやって夢中になることによって宗教が作り出されました。探求者のなぜという質問によって、キリスト教、仏教、そして他のすべての宗教が生まれました。そういった、「なること」の教えと呼べるような宗教は、どれも必ず根本的な誤りにもとづいています。その誤りとは、選択できたり意志をもっていたりする個人というものが存在し、そうした個人が道を歩み、ある状態からもっとましな別の状態に変わるように動機づけられ、間違っていない答えを探して見いだすことができる、というような考えです。

===

部分的には意味が分かるような気もするが、結局のところ、自分には全然理解できない。分かったときにはすべてが自明のことなのだろうが(だから諦められない)、これほど分からない話もない。

その2はこちら

広告

トニー・パーソンズ 書籍からの抜粋 その1」への8件のフィードバック

  1. Om Sri Sai Ram

    結局、「なんかそういう状態があるみたい」と思わせることには時々成功してるのかもしれないですね。

    まずそういうのがあるみたいと知ることでスタートが切れるのかもしれないし。
    (知った時点ですでにある種のゴールなのかもしれないけど)

    でもだからといってそれを頭で目指しても得られないジレンマ。。。!

    私の知り合いでなんかそういう風(一瞥?)になった人が時々いましたが、
    自分でだったり、自動的に環境によって危機的状況に追い込まれてぱかーんとイッちゃったり、

    きっとそれまでに準備されてたんだと思いますが、食堂でご飯食べてて突然そうなって、わははははと笑ったとかいう人がいました。

    私の知り合いたちだからかもしれませんが、共通してるのはちょっとオタクっぽかったりマニアックだったり、(修行や、神様、ヴェーダにたいしてもそのオタクさが適応される)
    そういうある種の一途さ、言い換えれば集中力や他人にかまわず自分の世界に浸る能力の高い人たちだったかもしれないと思います。

    そういう、自分にとっての快楽の状態に基づいて人生を展開していっていたように思います。

    ある種の幼稚さというか屈託のなさ、もしくは純粋さ?もありました。
    (まあ、みんなサイババがらみですが。。。)

    今の世界はありとあらゆる干渉波みたいなものにさらされてるから、純粋に自分自身になれてるときって普通に生活してたらほとんどないんだと思います。

    そこで純粋な状態、ひとつである状態をまた現そうとするならやっぱそれなりの、方向性をつけてもらえるような助けが必要だなと私は思います。

    アドバイタは教え?的には不二一元だけど、
    やはりすでにその状態に至った存在のあらわす世界に自分を開くことによって自分もそこにシフトして融合することが起こってるんじゃないかな~と思います。

    その、教師たちの存在が助けで、まったく純粋にラマナのように勝手に覚醒というのはあまりメジャーじゃなさそうで、
    ラマナもグルがいなかったわけではないと思いますし。

    それは人間の形をしていなかったかもしれないけど、彼の育った町の大気だったり、アルナーチャラだったりと、
    彼が自覚的にも無自覚的にも愛するものがあって、それが彼の個人性に限界を越えさせたと思います。

    そして唯一の状態に至った後でもいくらでもバラエティーにとんだ面白いことが続くみたいなので、疲れるけどいいねと思います。

    何につながっているかということで、その人が何になるか決められるんだと思います。
    アドバイタの場合、現象世界の要素を超越したものに直接つながっていようとする試みなので、スッキリさっぱりしててクールでいいですね。

    バラエティの豊かさという点ではそれこそミもフタもなくていまいちかもしれないけど、
    そういうみもふたもない絶対のものをひたすらクールに言い張ってる人たちがいてくれることで、
    しょうもないどうでもいいことを言うものは、彼らのおかげで安心してしょうもないことを言っていられるかも。

    そしてそのどちらも「それ」なんでしょうね?笑

    なんか指が走って長く書いてしまった。
    長文すみません。

  2. 様々な翻訳ありがとうございます。
    日本でなかなか翻訳が出ない覚醒者のコトを知ることが出来、
    貴重な情報源になっています。
    いつも楽しみにしています。

    これからもがんばってください。

  3. 古野さん、コメントありがとうございます。すごい指の走り方ですね(笑)

    一瞥が起こった人たちに共通することというのは、とても面白いです。僕も、そういう人たちによく見られるいい意味での自分勝手さというのは感じることがあります。

    ただ、何かとつながるとか融合するという感じは、僕はそういう人たちからは実は受けたことはないです。つながるというよりも、むしろその人だけで完全に完結している印象といいますか。でも、やはりよくわからないですね。いい加減です。

  4. KOJIさん、読んでいただいてありがとうございます。

    本当は、トニーの他にも翻訳許可をもらいっぱなしのものがいくつかあります。さぼっていて進んでいません。そのうち手をつけると思います。

    それと、いわゆる先生でない一般の何人かが覚醒したときの体験をそれぞれ語った本を、翻訳することになりました。下手な翻訳をどれだけ改善できるか、自分でも途方にくれていますが、めどがついたらこちらでお知らせします。

  5. >いわゆる先生でない一般の何人かが覚醒したときの体験をそれぞれ語った本

    それは是非読んでみたいです。
    今から楽しみです!!!
    早く読みたいです。
    (と、なにげにプレッシャーなんかかけてみました)

  6. Om Sri Sai Ram

    クールな?ヒロさんにおちょくられて光栄です。笑

    つながるというのはどういう世界のどういう質を身にまとっているかというか。。。

    常に交じり合うという形で創造活動が行われていると思うので、この現象社会にいる限り膨大な情報がその個人に集積してると思うので、

    情報の取捨選択によって個人という情報の集積地の質も変容していくと思ったのです。

    わたしはそういう現象世界における存在の創造活動と、完結している唯一のものというのとをちょっと混同しているかもしれません。

    それらは同じものの別の側面なのかもしれないですが。

    よくいわれるように、炎の熱さと輝きが切り離せないように。

    翻訳本も楽しみにしてます!

    さいらむ

    P.S.今ふと思ったんですが、一瞥って、ブラックアウトやホワイトアウトは含まないんでしょうか?

    気を失ったように外から見えても、本人は感覚の遮断された「在る」状態になってるという。

    でもきっとそうじゃなくて、一瞥は現象世界を統一場として見る体験なんでしょうね?

    自己完結失礼しました。

  7. 欧米のアドヴァイタの教師についての日本語で書いてある文献があまりない中、ヒロさんのブログは、貴重な存在です。
    感謝しています。

    宗教社会学者のI先生や、出版社のI社長などにも教え、喜ばれました。
    彼等も愛読していると思います。

    今度、一般人が覚醒体験を語った本の翻訳書を出されるのですね。

    高木悠鼓さんや今西礼子さん(レナード・ジェイコブソンの本の翻訳者。最近ジム・ドリーヴァーと言う覚者の本も翻訳されました)にうかがうと、覚醒に関する本を的確に訳すのは大変なようですね。編集者の手腕もかなり大切だとか。

    でも、今までのブログでのヒロさんの翻訳は分りやすかったので、大丈夫だと思いますよ(^o^)

    読める日を楽しみにしています。

  8. K.Katoさん、励ましの言葉、どうもありがとうございます。

    少しでも読みやすく、エッセンスが伝わるのを邪魔しないような翻訳にできればと願っています。

コメントは受け付けていません。