『降参のススメ 』を読んで

 
阿部敏郎氏と雲黒斎氏による『降参のススメ 』を読んでみた。以前阿部氏の『悟りの授業』を読んだことがあるが、こちらは漫才(?)形式ということもあって、『降参のススメ』の方が数段読みやすかった。

あまり期待せずに読み始めたのだが、掛け合いの面白さに一気に全部読んでしまった。しかも、内容的には前半部分は純粋な非二元的メッセージが続いており、このような内容がこんな楽しい形で読めるというのはすごいな、と感心した。

ただしそれは前半だけで、中盤以降はいわゆる精神世界的な話が続く。特に最後のQ&Aでは現象的な世界のあれこれに関する質問が続く。が、著者二人はサービス精神がありすぎるのか、そういった質問に対しても質問者のレベルで答えていく。

このような妥協とも思えるメッセージが、なぜ〈それ〉を知っているはずの人たちの口から出るのかということが、僕の最近の興味の対象になっている。

しゃべってお金を取って生活をするという人たちにとっては、〈それ〉に関する直球的なメッセージだけを発し続けることは難しいのだろう、という見方はできる。お金でなくても、聴衆からの反応だったり、他の先生AやBよりも自分のところに来る人数が相当少ないというような比較だったり、いろいろな動機によって現象レベル、相対レベルに話を落とすということが行われるのだろう、と勝手に思っていた。

だが、トニー・パーソンズや他のラディカル系の非二元教師(とは自分たちでは呼ばないが)の人たちが、ラディカルで直球のままのメッセージを言い続けていられるのは、単に欧米でそういう需要があるからにすぎないとも言える。もしかしたら彼らが日本に来たら、聴衆のあまりの反応の悪さに瞑想テクニックの話を始めないとも言い切れない。

実際、ミーティングに20人弱しか来ていなかった頃のエックハルト・トールを知る人と話したことがあるが、当時のエックハルト・トールのメッセージがそのままだったら、大ホールに聴衆が数千人も集まるような状態は絶対に起こっていなかっただろう、と言っていた。相当変化しているようだ。

でもだからと言って、エックハルト・トールや阿部敏郎氏たちが妥協をしていると言いたいわけではない。ただ、彼らが妥協をしているように見える視点に、今の自分が同一化しているだけだ。この視点がより優位であると主張する思考と同一化してしまっているだけだ。

結局、どちらの表現がより的確か、という話ではないのだろう。というのが最近感じていることだ。正しい音楽、というのが存在しないように、正しい非二元の伝え方というのもありえないはずだ。

リック・リンチツ(Rick Linchitz)の本を読んでいたら、彼が〈それ〉を表す言葉を固定しないようにしているということが書かれていた。ある時は意識、ある時は実在、ある時はそれ、ある時はすべてのすべて、ある時は純粋意識、ある時は気づき、ある時は存在、というように常に変えるらしい。トニー・パーソンズも、以前は実在とか意識という言葉を使っていたらしいが、最近はエネルギーという言葉がお気に入りだと言っていた。多分また変わるはずだ。

誰が正解を伝えているのか、どのグルが最良のグルなのか、と探すような動きは常に裏切られる運命にあるのだろうか。

好きな音楽を楽しむように、いろいろな非二元の表現も楽しめれば、その方がいいのかな。『降参のススメ』を読んで、そんな当たり前のことを思った。

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『降参のススメ 』を読んで」への3件のフィードバック

  1. ありきたりな意見でありますが「指月」
    誰が正解とかどのグルが最良とかどの言葉が適格だとかは些末なことであって
    肝心なのは「それ」そのものを自分が見てるのかどうかってことなんじゃないですかね?

  2. >好きな音楽を楽しむように、いろいろな非二元の表現も楽しめれば

    要は勝手にあれこれ興味の対象にして、ふらふら「楽しみたい」だけなんですね。

  3. たまに来る人さん、コメントありがとうございます。本当にそうですね。そうだと思います。

    その些末なことをめぐってウロウロするのは、自分でも「わざとか?」と感じることがないでもないです。「肝心」なことを恐ろしく感じているところも、どこかにあります。

    なので、率直に指摘していただくと、かなりドキッとしてしまいました。

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