トニー・パーソンズのインタビュー (2007年)

 
しばらく前に、2007年に行われたトニー・パーソンズのインタビューを見つけて、翻訳の許可はもらっていた。が、気分が乗らずに放置していた。それが急にやる気になったため、翻訳してみた。

インタビュアーはHalina Pytlasinska (ハリナ・ピトラシンスカ)という人で、彼女自身もミーティングを開いている。トニーのインタビューは彼女の覚醒の後でおこなわれたことが伺える。5年以上前のもので、今だったら言わないだろうなあということもトニーがしゃべっていて、少し面白い。

なお、「解放」という言葉が出るが、これはliberationの訳で、トニーがよく使う言葉だ。トニーによれば、覚醒(awakening)あるいは一瞥(glimpse)は何度も起こりえるし、個人的なものであり得るのに対し、解放(liberation)は最終的であり、また個人的なものではありえないということだ。

Interview with Tony Parsons – 26th Jan 2007

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トニー・パーソンズのインタビュー(2007年1月26日)

トニー・パーソンズは、10年にわたって完全に明晰な形で非二元のメッセージを伝えつづけてきている。トニーは遊び心に満ちていて率直であるため、彼の話には暖かさと笑いがある。オープンシークレット(公然の秘密)をただ発見するということ、それがトニーが提案していることだ。

『オープンシークレット』と他の何冊かの著者であるトニーは、非二元に関するミーティングをロンドンとヨーロッパで開いている。ミーティングに関する情報は、トニーのウェブサイト(www.theopensecret.com)を参照してほしい。

マインドは非二元のメッセージを誤って解釈する

Q. 電話で話したとき、妥協の無いメッセージを伝え続ける情熱について触れていましたね。

A. マインドはこのメッセージを恐れます。ある意味では、非二元についてのメッセージは、マインドが無いということ、マインドを超えて進むことに関して語るものです。ということは、マインドは物事の主題として扱われることになり、またマインドは偽りの王ではありえず、ただの道具であるにすぎなくなります。

ですから、マインドはこのメッセージに接すると、メッセージを捻じ曲げようと必死になります。私のミーティングに来れば、マインドが自身の生き残りのために戦っている様子を目にすることになるでしょう。

アドヴァイタに関する宗教的なアプローチのほとんどは、マインドが生き残ろうとする手段に成り代わってしまいます。変容というものは、何かが死ぬことであり、分離している状態を離れることであり、個人でなくなることです。マインドはこのメッセージに触れると、その人の物語が今後も続くようにと、メッセージを捻じ曲げる方法を見つけ出します。ミーティングでは、こんなことを聞くことになるでしょう。「私はもっと続けていたい。ひとりの人間として存在し続けることができる唯一の方法は、探し求めることだ。なのに探し求めるものなど何もないだなんて、よくもそんなことを!」

Q. そして、マインドがこのメッセージを歪めるときの一つのやり方は、メッセージを伝えているあなた、つまりトニー・パーソンズの見かけや特徴、性格に強い関心を持つということです。

A. 本当にそうです!私に夢中になる人がいて、こんな質問も出ます。「悟っていると、どんな感じですか?」

これはばかげています。なぜなら、悟っている個人というのは存在しないのですから。この質問はこう言っているのと同じです。「あなたは個人として存在し続けていますか?私も存在し続けたいのですが」

Q. すべてが前と同じように起こります。が、それは誰かに起こっているわけではありません。

A. そう、それは個性の終わりです。ですから個人がこのことから得ることは何もありません。解放から恩恵を受ける人は誰もいないのです。

Q. 個人にとって、自分が存在していないということを想像するのは不可能です。

A. 人々がこの独特の妥協のないメッセージに出会うとき、非常に強い恐怖が生じます。このメッセージが自身の死に関するものだということを、直観で理解するのです。これは、存在していないということについてのメッセージであり、他の何よりも恐れられます。

ですから、マインドはこれを避けて通ろうとするか、あるいは捻じ曲げようとして、必死になります。面白いのは、たとえば、セルフ・インクワイアリー(訳註: 自己探究、アートマ・ヴィチャーラ)はこのメッセージにとても近いのですが、無執着の世界に人々を誘い入れることによって、マインドに生き残りの場所を与えているということです。そうなると、生が起こっているということに気づいている誰かがそこにいるということになります。

Q. あなたは無執着という言葉を使いましたが、その言葉を聞くと、この仏教的な無執着という考え方についてのもう一つの誤解を思い出します。仏教の元の経典の一つの翻訳によると、この無執着ということ自体が追求されるべきなのではなく、自己という概念への執着から離れることが解放だというのです。

A. そうなると、意味がだいぶ変わってきますね。でも私がひとつだけ付け加えるとしたら、このメッセージは自己に執着しないということを言っているのではなく、自己が存在していないということを言っているのだということです。自己というものはまったく存在していません。それに執着するもしないも、自己は存在していないのです。

Q. 私自身、自己が死ぬと宇宙人のようになって、身体を抜けちゃう!と叫びながら床に溶け落ちるんじゃないかと信じていたという記憶があります。自己の死は苦しいのだろうと。

A. ええ(笑)人々は自分たちが死ぬということに恐怖を感じます。

Q. 当時もう一つあったのは、家族等との関係が変わってしまうのではないかという恐れです。自分の息子に対する愛を感じられなくなるのではないか、と。

A. そうですね、人生というものを失ってしまうことへの恐れ、自分の息子を愛することもなくなってしまうのでは、という恐れが生じます。解放がおこったときに発見して驚くのは、「自分」もいなければ息子もいないということです。そういったものすべてが窓の外に落ちてしまうということです。それらがあったはずのところには、ただ「母をすること」や「親しくすること」があって、そのこと自体について自分がそれをしているという感覚は何もありません。ですから、自分の役割だと考えていたもののかわりに、何かもっと豊かなものがあるようになります。

Q. 分離した自己として存在しているという観念は、思考との過剰な同一化なのでしょうか?

A. まさにそうです。解放の後も夢の思考は続きますが、それに耳を傾ける人は誰もおらず、それが違いです。誰かが思考に耳を傾けていると、それによって思考プロセスに大きな力が与えられ、思考が自身の一部となって、思考の語ることを信じるようになります。

Q. それを聞くと、解放が起こった後はノイローゼも痛みもなくなるだろうなどと期待していたことを思い出します。

A. それはそれは。でも分かります。というのも、そういうことが悟りを開くということについての基本的な教えだったわけですから。悟りを開いたら祝福されて至福の中で生きていけんだ、万歳!と。でも、それはまったく非現実的であって、そして解放というものは個人に関わるものだという考え方に結びついています。解放の後、ノイローゼは楽しく続きますよ(笑)それでいいじゃないですか。

Q. もう一つの誤解は、誰かが変な行動をしていたら、その人は完璧には見えないのだから悟っていないに違いないと解釈されるというものです。

A. ええ、とても楽しいことですよね。このことから逃げるためなら、マインドはどんなことでもしようとします(笑)

Q. こんな質問もよくあります。「なぜ苦しみが生じるのでしょうか?」

A. 分離があるところには、明らかに苦しみがあります。飢餓のようなことが苦しみだと考えられていますが、実際にはすべての分離した人たちが苦しみの中で生きていて、そのことで人々は解決を求めます。伝統的には、宗教はあなたが変われば苦しみを乗り越えられると教えてきました。革命的な非二元のメッセージ、オープンシークレットにおいては、苦しんでいるその主体が死にます。誰も存在していないとき、苦しむ人も誰もいません。これはマインドにはあまりに単純なように聞こえるでしょう。

Q. 私の身体にはまだ痛みはありますが、その痛みを個人的なものとしていた人がいた時は、その痛みの上に何重もの苦しみがありました。「なぜ私なの?」と。

ミーティングで伝えられる無限性

Q. このメッセージを伝えようとする情熱の話に戻りますが、私がこのことについて話すようになったとき、これがハリナの人格とは何の関係もないということはまったく明確でした。このメッセージにはそれ自体の命とエネルギーがあります。

A. マインドは何を話そうか探そうとします。ロンドンのミーティングで、前回と同じことを言うわけにはいかないと。でも、実際にミーティングが始まると、私はそこに立ちますが、何が口から飛び出すか一切分かりません。このメッセージはどこからともなく出てきて、この身体を通して伝えられます。トニー・パーソンズはそこに座って、ただこの驚くべきことが起こっているのを眺めています。時には、トニー・パーソンズ自身が、語られたことにぎょっとすることもあります。あるいは、これまでに聞いたこともないような質問が投げかけられる場合もあって、そんなときはマインドは「どう答えればいいんだ?」と思いを巡らせます。質問の言葉が終わると、突然言葉が出始めますが、それはマインドに導かれてはいません。質問に対する反応なのです。どこからともなく出てくるのです(大笑い)

Q. 時間と時間を超えたものが同時に存在しているということについてあなたが話したとき、十字架を象徴として使ったことがあると聞いたことがあります。

A. 私はキリスト教の教えをうけて育ちました。キリスト教はほとんどの西洋人の精神の中に存在していると思います。十字架の象徴的な意味は、私たちが考えるよりも遥かに強い影響力を持っています。水平、あるいは直線的な世界があるように見え、それは時間、原因、結果、物語といったものです。実際には、私たちが現実だと思っているその水平な世界は、本当は垂直について語っている寓話なのです。これは誰も言い表すことができない深遠な謎で、この水平と垂直が交差する地点は、実のところ時間を超えているのです。つまり、垂直が水平に沿って移動しているということではなく、その十字架の中心点は、時間を超えた「あること」だということです。時間を超越した〈存在〉は、見かけの上では現象として生じている無なのです。

Q. それが、私たちの正体ということでしょうか?

どういうわけか、このメッセージを伝えるとき、その感覚が拡大します。初めてミーティングに参加したときのことを思い出します。友人のリチャードに、10分は聞くけれど、その後買い物に行くから出ていくかもと言いました。でも部屋に入った瞬間、そこにあったのは時間を超越した感覚でした。

A. そう、それこそ何よりも強力なものです。いくら言葉を並べても…。今ちょうど新しい本を書いているのですが、こう思いました。「この言葉の羅列!」 もっとも強力なものはそのエネルギー、その無限性です。それは誰のものでもありません。

聴衆の中で起こるかなり強力なことがもう一つあって、それは、部屋の中の誰からも何も期待していないということに突然気がつくということです。見かけ上の探求者という聴衆が、ただ存在としてあることが理解されます。この視点から見ると、聴衆の中に分離した個人は一人もいません。

Q. 期待というのは牢獄の一部なのでしょうか?期待というのはひとつの大きなテーマですか?

A. まさにそうです。教師というものが存在しているスピリチュアルの世界では、生徒の側にはある一定の基準に達したいという期待があります。非二元のミーティングにはそうしたことはありません。それは強力なことです。

Q. 質疑応答形式のミーティングでは何が起こっているのでしょうか?

A. 私が間違いなく感じるのは、聴衆の中には、分離の状態を守るために防備をより強力にする人たちがかなりいるということです(笑)そのことにはあなたも気づくと思います。マインドがこのメッセージを聞いたとき、このメッセージを価値のないものにしたがったり、避けようとしたり、メッセージを潰せるような何かを見つけようとしたりするのは無理もありません。そういったことに失敗したときは、今度はマインドはメッセージを都合よく解釈しようとするでしょう。

そんなわけで、多くの人にとっては、語られていることを本当に聞くということは決してありませんし、聞こうともしません。それから、そうした人たちは語られたことについての混乱した理解と共に、あるいは都合のいい解釈や誤った理解と共に去っていきます。

一方で、用意ができている状態がある場合、これは誰の用意でもないのですが、その場合はもっとも強力なこの無限性へ開かれるということが起こります。

ミーティングに来る人たちについてもう一つ興味深いのは、だいたい60%くらいの人が何も質問をしないということです。こういう人たちは以前にも来たことがあって、質問がもう無い人たちです。

もし私の答えを本当の意味で聞いた場合、その答えによって人はマインドが停止した状態へと必ず持っていかれます。これは多くの人に起こったことです。マインドは沢山の質問をしますが、いずれはただ諦めます。なぜなら、質問をしてもうまくいかないからです。

Q. ええ、私も初めてミーティングに参加したときは何度も質問をしましたが、そのうちだんだん質問が出なくなりました。自己が死んでいくということが起こったのは、質問をせずにただミーティングで座っているようになってからのことでした。

A. ミーティングが終わってから私にこう言う人たちは大勢います。質問を沢山用意してきたのに、座って聞いているうちに、質問は全部なくなってしまった、と。見事じゃないですか!(笑)

Q. 私はあなたに電話をして質問をしたものですが、それは質問の答えではなく別のことを求めてのことでした。ミーティングで感じられるような、はっきりした喜びです。

A. それは何よりも変容を起こさせるものです。

Q. それが、私たちであるものであって、また時間の中で進む物語の中で見落としているものです。伝統的な教育にはこのことが欠けています。

A. そのかわりに、私たちは何かを成し遂げるように教わります。

Q. 常に存在しているはっきりした喜び、それは本当に強力なものですが、教育の結果、私たちはその感覚を見過ごすようになります。

A. まったくそうですね。私たちは目標志向、目的志向の世界にいますから。

非二元と現代科学

Q. 沢山の若い人たちがミーティングにやってきて、このメッセージに接しているというのは興味深いことです。これは無秩序のメッセージであって、伝統社会の権威のメッセージと相反しています。

A. 私が感じるのは、権威というものは若い世代を支配する力を既に失っているということです。宗教的権威が既に崩壊していることについては、疑問の余地はありませんし、政治的権威も崩壊しつつあります。権威という観念の他に何かがあるのではないかと若い人たちは感じています。若い世代は、完全に純粋な無秩序であるこのメッセージにとても興奮しています。権威も筋書きも運命も存在しない、これこそがオープンシークレット、公然の秘密です。生を創造している何かが「天のどこか」に存在しているということはないのです。

Q. 生は勝手に生じています。

A. そう、これはとても強力で革命的なメッセージです。最近の多くの科学的発見にも裏打ちされているのです。

Q. 量子のレベルでは、自然法則は日常的なレベルとは異なっていて、世界の構造は見た目とは違います。多くの科学者が、単一性が時間の外に基礎として存在していると結論づけつつあります。

量子場では、意識を向けられているかどうかによって物事は変化します。

A. ええ、そしてもう一つの面白い分野は神経科学です。最近オランダの科学者が証明したのは、人の成長のとても早い段階で脳で何かが起こり、そうすると脳の中で「私」がシミュレートされるようになるということです。これは外界とみなされるものから生命体を守るために起こります。

Q. 脳は風景もシミュレートして、成長するにつれて、そのシミュレーションを真剣にとらえるようになります。

A. 最初は生き残りのためだったのが、コントロールするとか、人生をどうにかするとか、選択するというようなすごい物語が始まります(笑) 実際、すべてのことがシミュレーションに基づいています。

Q. 時間の中で進む物語の中では、非二元というのはパラダイムシフトだと思いますか? 大昔には、天国が空の方にあって、自分たちは平坦な世界に住んでいると信じられていました。その後、地球が太陽のまわりを回っていることをコペルニクスが発見しました。もっと最近では、セラピー的な考え方において、自意識というものが主題となってきました。そして今、存在の単一性が知覚されています。

A. ある意味ではそうだと言えるかもしれませんが、非二元論の本質は、転換とか進化といった概念を超越するものです。

Q. 非二元の視点から言えば進化というものは存在しないからですか?

A. もし物語とか時間といったものがあるというふりをするのであれば、このメッセージは歴史を通して常に存在していました。が、このメッセージを教義であると解釈してしまうマインドによって、ひとりでに隠されていました。このことは進化の中で起こる転換なのではなく、ただ既にあるものを認識するということなのです。

存在の感覚

Q. 解放によって生の性質が変わるということはありませんね?

A. そうです。

こうしたことについて面白いのは、こういうミーティングは15年前なら無かっただろうということです。過去10年の間に、非二元は突然爆発的に人気を得ました。このことについて書かれた本や教えは数限りなくあり、それらはアドヴァイタと分類されていて、正しく理解されているとは言えませんが、このメッセージは大きく注目されてきています。

Q. それはなぜでしょうか?

A. おそらく、私たちの現在の文明が終わりを迎えつつあるのでしょう。〈存在〉が世界として顕現するという状態が現象としては終わりつつあり、そのために単一性がより容易に理解されるようになっています。この世界は〈存在〉へと戻り、それからまた別の物語が現象として始まるのです。

Q. 息を吐いたり吸ったりするようなこと、あるいはオーガズムのようなものですね。

A. そう、まさにそういうことです。オーガズムの終わりに、すべてのことが明確になり、またすべてが元に戻って、そしていつか姿をあらわします。

Q. このホログラフィックな世界の中では、すべてのことが常にそういう風になっています。息を吐いて、息を吸って、それは固まったものではありません。

A. ええ、ハハハ、本当に見事ですね(笑) 美しくて、素晴らしくて…驚くべきことです。存在したり、しなかったり。

Q. そして、自己がないとき、子どものような不思議な感覚が、存在のすべての美を目にします。

A. そう、それはすごいことです。

Q. クレアは、このすべての現象の不可思議について「穏やかなワオ!」だと描写しましたが、いいですね。

A. それは完璧な描写です。これは絶えまなく続く驚嘆です。

Q. 私に覚醒が起こったとき、「私は無だった」という認識と、「私であるもの、それはすべてである」という認識との違いを感じました。それは、引っ越しのときに家具がなくなって空っぽになった家を歩き回り、壁はあるのにもうそれは我が家ではない、という時の感じに似ています。住人は既にいないのに、家はまだそこにあって、ただ部屋は空っぽというわけです。

最近、ある人と話しました。彼は、自分が存在していなかったということは分かったものの、自分というものはすべてであるということを認識していませんでした。これについて何か言えることはありますか?

A. 覚醒は起こったのでしょう。が、すべてが分かったわけではありません。というのは、かすかでほとんど目に見えないような「私」がそこにいて、まだ探求しているからです。クレアと私は多くの人たちと話します。そうした経験から言えることは、そして自分たちの経験でもあるのですが、導入的な覚醒というものがあることがあって、そのときはかすかにまだ誰かが残っています。最終的にその探求者の部分が脱落したときに、すべてのみが存在するということになります。誰かがまだいるかぎりは、すべてだけが存在しているということは決して認識されません。なぜなら誰かがまだ見ているからです(笑)

Q. とらえにくい観察者がいるということですか?

A. そうです。ほとんどの人たちの場合、残留物が残りますが、それはいずれは消えます。ときには、何の残留物もなく、一気に解放へ至る人たちもいますが。

幼児の頃に「私」がシミュレートされ始めるとき、〈存在〉から乳離れしますが、その後も数年は子どもたちは〈存在〉のことを覚えています。その後、何層にも重なった「私」の中でそれが失われます。覚醒は、〈存在〉へとまだ戻ることです。

Q. 私の息子の中で「私」の感覚が発達してきているので、それは分かります。〈存在〉の境界のない感覚の中に、境界が生じつつあります。私の息子は、「私」無しで世界が存在しえるということを理解することができません。

A. ええ、このことはあなたの先ほどの質問に関連してきます。それは、見ている人がいなくなるまでは、すべてのみが存在しているということが認識され得ないということです。時間を超えた何かを時間の中で探そうとしていると言うこともできます。

Q. 探求している限り、絶対に見つからないということですね。

A. まったくそのとおりです。

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