覚醒者の表現の変化あるいは洗練について

 
2006年から活動を停止していたイギリスのネイサン・ギルが、今年ミーティング活動を再開した。3月、4月とロンドンでミーティングを行い、さらに、Youtubeでは動画を公開している。

Youtubeのチャンネル nathan Gill

3月のミーティングの録音をさる筋から入手して、前半を聞いてみて、驚いた。

ネイサンは一般的にはトニー・パーソンズ系とされてきた。つまり、覚醒のために人ができることは無いし、そもそも人が存在していないし、自分がいるという概念がそこにあったりなかったりしても、そのいずれも重要ではない、というようなことを言う人として知られてきた。

ところが、このミーティングの録音をきいても、上記の動画のいくつかを見ても、トニー系の表現は姿を消し、「リラックスし、気づきとして存在していることを自覚する」とか「思考に巻き込まれていない時間を意図的に設ける」とか、そういういわゆる「do」についてのことを話している。

Resting as Awareness 2

この動画でも、「思考のストーリーに巻き込まれていない時は、より平安の中にいることに気づくでしょう」といったことを喋っている。

こちらのマインドとしては、この変節(と言いたくなる)についての説明をまずはしてくれ!と言いたくなる。ネイサンののんびりした喋りを聞いていると、まあどっちでもいいかという気にもなるが、やはり落ち着かない。

このように、アドヴァイタやサットサン系の教師たちの表現が変化していくことはよくあることのようだ。確かにトニーも数年前とはかなり用語や強調する点が異なってきているし、ジェフ・フォスターも当初のラディカル系のメッセージは姿を消し、今ではどちらかと言うとラディカルな非二元の表現に対する批判的な言葉が目立つ。

そういう変化を当人たちは洗練と呼んでいたりもするが、どうなのだろう。

洗練という言葉でイメージするのは、解像度が上がっていくような感じだ。曖昧だった点、誤解を生みかねない表現が、そうではなくクリアで他の解釈を許さないような表現になっていく。そんな変化であれば洗練と呼んでもいい気がする。

その意味ではトニーがワンネスとかコンシャスネスといった言葉を使うのを止めて、よりニュートラルな言葉遣いをするようになっているというのは、洗練と呼んでもいいように思う。(この点で非常にすっきりしていて今注目しているのがリック・リンチツだ)

が、ネイサンやジェフ・フォスターのような変化の場合、解像度が上がるというよりも、表現している対象が変わってしまっているか、あるいは表現するときの動機が違ってきているように感じる。

いずれにしても、マインドにとっての「正解」は、本当の正解ではありえないということを思い知らされたような気がして、半分頭にきて、半分は愉快な感じがしている。

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