究極のパラドックス

 
何年か前、家族と話しているときに、「どんなことが一番好きか?」という話題になった。

妻や子どもの答えを忘れてしまったのはご愛嬌として、自分がその時にすぐに思いついたのは、「目からうろこが落ちる体験」というものだった。豪邸や美食やスポーツカーではないことは自分としては当然だが、家族の笑顔でも究極の癒しでも世界を救う発明でもなく、「目からウロコ」なのだということには自分でも半分笑ってしまった。

以下に紹介する体験談を読んだ時、そんなことを思い出した。

英国の出版社Non Duality Pressのウェブサイトで紹介されている覚醒ストーリーのひとつで、トニー・パーソンズのレジデンシャルに参加していたりする共通点があって、面白く読んだ。翻訳の許可を得たので、紹介したい。

STORIES OF AWAKENING – Benedict Andrews

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ベネディクト・アンドリュースという人は、かつて(そして今も)非常にやり手の起業家で、14歳の時にはビジネスを始めて利益を出していました。

僕がこれから説明しようとしている「出来事」は、起こったと同時に、「もっと」を追求したり探求したりすること全てに終止符を打つものでもありました。何であろうと存在しているものは完全であり、欠けているものはありません。除外されるものも拒否されるものもないし、必要とされるものも何もありません。あるのは単に楽しい驚きです。見かけの上で人生は展開していきますが、そこにはどんな努力もありません。行為者もいません。経験する者もいません。あらゆることが尊重されますが、重要であることは何もありません。

2009年の初めに、ダライ・ラマのThe Art of Happinessという本(邦題『こころの育て方』)を手に取りました。その本を楽しく読んだのですが、それは僕が集中的な読書をはじめるきっかけとなりました。暇さえあれば本を読んでいたのですが、暖炉の前でワインを飲みながら読むことが多かったです。

仏教の様々な流派についての本を読んで、それから、悟りについてのもっと「現代的」な見解に接していきました。僕はそうしたものに限りない魅力を感じました。「成就」はいつか「未来」に起こるであろう何かではなくて、「ここ、今」にあるものなのだということは、明らかだと感じられました。今は僕の目からは隠されているけれど、いずれはそれが分かるようになるのだ、という理解をしていました。

このことについての魅力の大部分は、「それ」(それが何であろうと)が「経験に基づいたもの」であるとされているというところにあります。これは信念に基づくものではなくて(信念であれば疑うこともできます)、この「こと」は実際に多くの人が経験していることです。そして、これは一度経験すれば疑う余地がなくなるということも書いてありました。

同じことですが、こうした主張は、宗教的な教義のほとんどとは比べものにならないほどマシであるように思えました。宗教的な教義は「信じる」ものであって、「信仰」を持ちつつ天国を待つといったようなことが要求されます。

こうした読書を通して、仕事をするのがより楽になりました。読書で学んだ概念が自分をリラックスさせるのに相当役立ったのは確かでした。僕の妻は、ある時点では、僕が出家したり荒野に消えたりするのではないかと心から心配していたようです。僕自身もそうしたことを何度か考えたことはあったのですが、そういうやり方は自分には向かないということは分かっていました。

エックハルト・トールのThe Power of Now(邦題『さとりをひらくと人生はシンプルで楽になる』)は、ある週末に最初から最後まで一気に読んだのですが、僕にとっては非常に大きなインパクトがありました。一度読み終わった後も、何度も読み直しました。その後、インターネットでエックハルト・トールの教えを学びました。「悟った師」が今も生きていて、とても簡単にその教えに接することができ、理解もしやすいということは素晴らしいことでした。彼の言うことのほとんどを理解することができました。そこにはある独特の論理があり、そうしたものを読んで概念を理解しようとすることは、解放感をもたらすものでした。

当時僕が理解したのは、人間は生から切り離されているように感じるために満たされていないと感じるのだということでした。誰もが、自分は分離した個人であって、世界は重荷としてのしかかってくる存在だと感じています。そのように感じているとき、人は常に不満足な状態におかれることになります。物事がうまく進んでいく時はあっても、結局は、不満足な状態に戻ることになります。というのは、誰もが自分自身を巨大な宇宙の中にあるちっぽけで限定された破片にすぎないと感じているからです。自分は弱くて価値がないと感じています。当時の僕の理解は、悟りというのは、この分離の感覚を終わらせるような何かを個人が達成することである、というものでした。

この本を読んだ後、「悟っている師」を探しだして、自分が悟るための指導と助けを受けたいと思いました。

友人たちの中にはこのことにあまり興味を抱かない人たちがいて、そのことに僕はかなり驚きました。実際に今生きて息をしているブッダたちがこの世界に存在していて、2600年前にブッダが言ったようなことを読むこともできるし、その人たちのところに行って現代の言葉で教えが語られるのを聞くこともできるのです。僕にとってはこのチャンスを生かさないというのは考えられないことでした。

教師たちの一覧が掲載されているウェブサイトを見つけたのですが、その中にトニー・パーソンズの名前がありました。トニーのウェブサイトに目を通し、彼の動画もいくつか見ました。彼の言うことのほとんどに共鳴しました。ある意味で彼の伝えていることは、これまで読んだ他のものよりも非常に直接的で妥協のないものでしたが、語られていることは同じこと(悟りと分離の終焉)なのだろうとなんとなく理解しました。

2009年の10月に行われたウェールズでのトニーの4日間のレジデンシャルに申し込みました。数日を通してこの「グル」に自分を浸したかったのです。

レジデンシャルはとても愉快なものでした。

トニーが主に伝えていることはこういうことだと思います(自分の言葉で言い換えます)。「人は存在していない。あるのはワンネスだけであり、それは時間を超えた、不動の無限だ。悟ることができる人は誰もいない。それは、誰も存在していないからだ。悟りは、すでにあるもの全てとしてある。自由意志をもって選択できる一人ひとりの人間がいるという感覚は幻想であり、このようにして共に話すことで幻想の正体が暴露され、それによって(あるいは、実際のところはどんな時でも)、その幻想は単純に崩壊することがある(または、しないかもしれない!)。幻想が崩壊したとき、あるものすべては悟りであって、分離した自己というものが一度も存在していなかったということが完全に明白となる。逆説的ではあるが、これは、一度も存在したことのなかった何かが崩壊するということなのだ」

トニーが言っていたのは、これは分離を終わらせるということとは関係ない、なぜならどんな分離も存在していないからだ、ということです。分離というのは、催眠にかかったときの夢のようなもので、人間に特有なものです。現象の世界の中で、人間以外に分離した現実の中で生きている存在はありません。トニーは、誰かが存在していたことは一度もなかったということについても明確で、ということは、分離していたり分離していなかったりということを選択できる誰かも存在していないということになります。

すべきことは何もないということについても、トニーははっきりしています。あなたが何もできないというわけではなく、そもそも「あなた」は存在していないからです!

そこで理解したのは、「分離という神話」の正体を単に暴露することによって、それが崩壊するということでした。

トニーが言っていることを理解しようと一生懸命になり、彼が説明している「現実」を頭の中でモデル化しようとしました。レジデンシャルの初日、僕は前もって考えて書いてきた数々の質問のリストで文字通り身を固めていました。質問のいくつかは長くて複雑なものでした。

僕はトニーが言ったことのいくつかを理解しましたが、理解しなかったこともありました。自分の質問に対する彼の答えについてじっくりと考えましたが、意味のありそうな結論には至りませんでした。毎晩自分の部屋に戻ると、自分の質問とそれに対するトニーの答えを分析して、更なる質問の案をつくりました。

レジデンシャルは終わりました。レジデンシャルはとてもリラックスできるもので、本当にさわやかな気分になりました。自分は「うまくいっている」と感じ、何度かレジデンシャルに参加し続ければ、最後にはすべてを理解できるだろうと思いました。

ただその時点ではまったく理解できていませんでした。家に向かって運転しているとき、(信じられないことに)トニーが指し示し続けていたことが突然完全に明白になったのです。それは間違えようのないもので、絶対的に自明のことでした。どうやってこれを見落としていたのだろう?僕は「信じられないことに」という言葉に括弧をつけました。それは、この非常に「奇妙なこと」が理解されたということは途方もないことである一方で、実際にはそれは完全に普通で自然なことだったからです。

このとき明らかになったことは、自分がそれまで想像していたこととは、まったく異なっていました。自分が思い描いていたこととはまるで違っていたのです。突然、自分が尋ねていた質問のすべては完全に不必要なものになり、非常にばかげたものになりました。すべての質問は誤った考えに基づいていたのです。

奇妙なことは、この明確な理解というものが、トニーの言葉から自分が期待していたこととはまったく違っているにもかかわらず、トニーの言葉のすべてが、今や明確になったことを完全に裏付けているということです。

それ以来、無条件の安らぎがあります。

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(2015年2月追記: 商業的な迷惑コメントが多いため、一時的にコメント書き込みを停止)

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