探求の無益性、存在の驚異 トニー・パーソンズ

 
トニー・パーソンズ(Tony Parsons)のウェブサイトから、「Apparently …」というタイトルのエッセイを翻訳してみました。彼の許可をもらったので紹介します。

このエッセイを何度か読んでいるとき、映画『シックスセンス』の主人公になったような感じになり、方向感覚を失ったような恐怖にとらわれました。

Tony Parsonsのウェブサイト The Open Secret

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オープンシークレットのメッセージは、存在のシンプルな驚異にただ注意を向けさせ、それを追い求めることの無益性を明らかにしようとする。ここでは、スピリチュアルな修養やプロセスの教えは、受け入れられることも拒絶されることもないが、探求者と呼ばれる何かが、悟りと呼ばれる他の何かを獲得することができる、という信念の原動力となっている、異常で根本的な誤解の正体が、妥協なく暴露されることになる。

生は、果たすべき仕事ではない。成し遂げるべきことはまったく何もないというということを認識する以外に、成し遂げるべきことはまったく何もない。

探し求められているものは、すべてとして常にあることによって、探求者から隠されたままとなる。

それはあまりに明白で単純であるため、つかもうとすることがそれを覆い隠すことになる。決して見つからず、決して知ることができないものである存在は、はかりしれないほどの究極の非存在である。

存在を探すということは、それが失われたと考えているということである。果たして何かが失われたのだろうか、あるいは、探すことによって見失われているだけなのだろうか? 最愛のものは、我々の焦点の範囲の少し外で、いつも絶え間なく踊っているのだろうか?

生の中で宝物を探し求めようとするその意図そのものが、生が既に宝物であるという現実を必然的に見えなくしてしまう。

探求者は、いつか獲得できると夢みている架空のものを探し求めることによって、自分がもっとも恐れていることから事実上逃れている。探求者がもっとも恐れていること、それは自分が存在していないということだ。

このメッセージが、悟りを得るということに関して何かを行ったり行わなかったりする「自分」が存在している、と言っていると考えるのであれば、それは考え違いである。

多くの人はこのメッセージを受け入れず、何かを理解したり何らかの行為をしたりするような、慰めになる物語に戻っていくだろう。しかし、共鳴が起こる可能性はあり、そのときその共鳴の中で、分離の幻想は崩壊し、残るのは無だけになるだろうが、その無はすべてである。

悟りを求める教義、プロセス、漸進的な道は、自分が見失ってしまったと思い込んでいる何かを見つけ出すことができるという考えを強化し、それにより、それらが対象とする問題を悪化させるだけである。まさにそうした努力、自己の独自性に力をそそぐということ、それこそが、一体性からの分離という幻想を、絶えず再創造しているのだ。これが個人という夢である。

「私」は平安と満足を求め、「私」は自己の向上、純粋さ、存在感、超然とした態度を探し求める。「私」は、明晰さ、あるいは「私」が欲しいと考えるものや必要だと考えるものを「私」に与えてくれそうな方式を求める。しかし、「私」が自分で欲しいものを得られないということが、ジレンマなのではない。ジレンマは、見かけ上の「私」だ。

解放は、ヒューズが突然切れて、すべての小さな灯りが消え、光だけが残っているようなものだ。

生に答えはない。というのは、生がそれ自体の答えだからである。それは既に起こっている。これがそれだ。それは一度も失われたことはない。現象として解放が起こったとき、人々は「これは驚きだ。だって、私が探していたものが自分から去ったことは一度もなかったんだから。これは現れることも消えることも決してないものだし、知ることも掴むこともできない不変のものなんだ」と言う。

分離して存在しているという偽りの感覚が崩壊するとき、そこにあるのは、不変で知ることのできない存在の驚異だけである。

オープンシークレットの見かけ上のメッセージは、逆説的で、不合理で、信じがたく、非規範的で、非スピリチュアルで、妥協のないものだ。隠された意図もなく、見かけ上の個人を助けたり変えようとしたりする意図もない。それはどんな教えにも先立つものであり、その共鳴はエネルギー的に共有されるのであって、観念のやりとりを通して共有されるわけではない。

それでは、探求者はスピリチュアルの山を登るべきなのか、それともただ委ねて生に明け渡すべきなのか、ということが質問になるのだろうか? それとも、質問も答えも存在しないということがありえるだろうか? おそらく、探し求められているものは、既にあるものすべてなのだ。もしかしたら、渇望されているものは、すでに絶えず起こっていて、一度も姿を消したことはなく、探求者がそれを求めて探していただけかもしれない。

探求者が、既にすべてとして存在するものに「直接的に近づく」ということがありえるだろうか?

人がひとつの方式からまた別の方式へと渡り歩くとき、自由はここにあるわけでもなく、あちらにあるわけでもない、ということを理解することができない。それはただ、自由が、そのまさに本質によって、除外されることも独占されることもありえないからである。次にもたらされるべきスピリチュアルな恍惚状態を求めて進んでいくと、自分が探している宝物は自分の進む先にあるのではなく、自分の踏むまさにその一歩の単純な本質のなかに見つかるものなのだ、ということが理解されないようだ。

生は生自体の目的であり、存在するのに理由は必要とされない。それが、生の美である。

生はただ生であり、まったく何も証明しようとはしていない。今年の春が昨年の春よりもより良くなろうとすることはなく、トネリコの木がオークの木になろうとすることもない。

見かけ上の自己は、それ自身の認識を通してのみ存在することができるため、より深い意味に対する自己の探求は、自分で理解して経験できることに限定されてしまう。分離した探求者は、知ること、おこなうことができることなら何でも追いかけるが、自身の不在を追いかけることはない。自己の不在は、知ることのできない空っぽさであり、しかし逆説的にそれはまさに豊かさであって、また、探し求められていた全体でもある。

排他性は排除を生むが、自由は友情を通して共有される。

この洞察がどこで伝えられるとしても、いつ伝えられるとしても、それは目的の達成とも、信念とも、道とも、プロセスとも関係がない。それは教えられるものではないが、絶えず共有されている。それは存在するすべてであるため、それを所有できる者は誰もいない。それは単にありのままにそれとしてあるため、論じる必要も証明する必要も装飾する必要もない。そして、それは、認識されずに退けられたままとなるか、あるいは、悟られて実践されるかのいずれかである。

2011年1月

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このエッセイの中にある「解放」というのはliberationのことです。トニーは、覚醒(awakening)と解放(liberation)を区別して使っています。彼の説明を僕が理解したところでは、覚醒は、「自分」がひとつの錯覚としてしか存在しておらず世界が一なるものであることを一瞥し、理解することです。

この一瞥、又は何度かの一瞥の後でも、「自分」が戻ってきてその一瞥を「自分」の体験にしてしまう状態(そしてその「私の体験」を再現しようとしてもがく状態)が時には何年も何十年も続くことがあり得るということです。

そして、解放においてはそのような「自分」とその不在という状態の往復運動は起こりえないという説明でした。このあたりのニュアンスはよく分かりませんが、覚醒の後でも探求が続くことはあり得るのに対し、解放にあっては探求はありえないのだというように理解しました。

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