マインドと脳の限界 レオ・ハートン

 
先週末のW先生の秋のリトリートに参加しました。いろいろな話を聞き、マインドは最大限に混乱しつつ、その状態を放置してもあまり気にならないという不思議な感覚に包まれています。

さて、レオ・ハートンのウェブサイトのQ&Aを翻訳紹介するシリーズです。脳とマインドについての質疑です。

http://www.awakeningtothedream.com/newsletter/nl-033.html

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Q.
あなたの言うところの明晰さの状態というものは、脳への感覚入力による作用がもたらすものだと、あなたは考えているのでしょうか?

A.
すべてが<一なるもの>であることが理解されるとき、明晰さが何か特定のものによってもたらされるとか、もたらされないとか考えることは難しくなります。それは、フルートで演奏される曲にたとえることができます。その曲は、フルート(脳)、あるいは息、肺、フルートの製作者、奏者、作曲家、または振動する空気を音に変換する耳、のどれかによって起こったものだと言えるでしょうか? これについては言い出せばきりがなく、空気がこれを可能にしたのだとか、いや地球上の諸条件が空気を生んだのだとか、それは太陽が、それは・・・となってしまいます。これは、どの角度から取り上げるか、そしてどういった脈絡で語られるのか、ということによって左右されてしまいます。

もちろん、明晰さを経験して表現するためには、身体、マインド、脳が必要ですが、これらすべてのものとして表現している<それ>は、何ものにも依存していません。それは自ら輝いており、私たちが存在と呼ぶこの夢の時間と空間の次元に先立つものです。

そもそも何かが存在しているという本当の謎は、脳やマインドには解くことはできません。というのは、脳もマインドもこの謎の一部であり、あるいは、この謎の表現だからです。存在の神秘にマインドが取り組むとき、何が起こるか見てみましょう。進化論のような明快な理論を思いつくこともあります。その前に、星と銀河の組成を理解するかもしれません。さらに遡って、第一の光、ビッグバン、時間の始まりのことを推測することもできます。ここで、直線的な論理は中断せざるをえません。マインドは時間以前のことを想像することができません。「以前」と「以後」は時間の本質だからです。

逆説的ですが、この謎は純粋な簡単さであり、または公然の秘密でもあります。それは、知覚されるものすべてであり、知覚することそのものでもあります。これはマインドが把握できるようなことではなく、マインドは自身の限界を知り、あきらめるしかありません。その瞬間に、これを理解すべき何者も存在しないことが理解されます。そしてそのときそこにあるのは、単に理解です。謎そのものの理解ではなく、謎として存在していることの理解です。

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分かったような分からないような話です。マインドには分かりませんよ、ということを文字で書いて表現するというのは、考えてみれば一種のギャグのようなものかもれません。

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