片面、両面

 
震災以降、半ば狂ったように原発関連のニュースを追いかけ続けています。これほど夢中になったことが過去にあったかどうか考えると、会社員を辞めた後に寝る間を惜しんで仕事をしていたことと、学生時代の恋愛くらいかな、という勢いです。

これほど現象に巻き込まれるというのもすごい話ですが、現象に巻き込まれてはいけないというアドヴァイタ的な「教義」が更に苦しみに追い打ちをかけてきます。冗談にもなりません。

ところで最近、ジェフ・フォスターが面白い動画を発表しました。『アドヴァイタの罠その2 非二元信者の決闘』というものです。

The Advaita Trap 2: The Duelling Non-Dualists

字幕付きですが、一応訳を書いておきます。

右)この紅茶、本当においしいわ。これ、本当に・・・、こんなおいしい紅茶を飲んだのは久しぶりよ。そう思わない?
左)紅茶は存在していない!
右)でも、紅茶は生 (life) の一部でもあるわ。それにすべては生の中に現れているわけでしょう。それが、何? 紅茶は存在しないって?それは否定だわ。それこそ二元性よ。
左)ジェイニー、「紅茶」はあなたが抱えてる沢山の概念のひとつにすぎないの。
右)それこそあなたの概念のひとつだわ。概念は存在しないっていう概念のことよ。あなたは教条的な思考パターンにまた嵌っているんだわ。
左)概念を持てるような人間はここには存在していないの。
右)じゃあ、誰がそのことに気づいているってわけ?
左)一体性 (oneness)。
右)へえ、「一体性」だっていうのね。
左)そう、一体性。
右)あのね、あなたの言ってることは完全なたわごとよ。
左)じゃあ、「たわごと」が一体性の中で展開してるんだわ。
右)へえ、じゃあ「たわごと」は一体性の中で展開してるけど、紅茶はそうじゃないってわけ?
(終わり)

この動画のテーマになっている生の否定ということは、ジェフ・フォスターが最近よく言うことです。すべては幻想であり、個人も世界も本当には存在していないということだけを言うのは一面的だということでしょう。(それを強調しすぎていること自体に、そういう一面的主張を非難する色彩があり、かなり二元的なニュアンスを感じてしまうということはとりあえず置いておきますが)

アドヴァイタを概念としてとらえると、上の「対決」のような滑稽なことになるのでしょうが、自分もそういう場所にいる気がします。そのあたりはうちの妻が鋭く指摘してきたりするので面白いのですが、結局マインドとの同一化とハートへの信頼とのバランスとアンバランスの中でうろうろしています。

しばらく前に、スペースまほろばの中野さんがブログでこんなことを書かれていました。(多次元的な世界と理由のない幸福感)

「すべては空(くう)」なのが真実だとすると、この世的な事柄に関わることがどうでもいいような気持ちになるのではないか、と心配する方がいるかもしれません。

ところが不思議なことに、私自身の感覚では、確かに一時的にはそんな気分になることもありましたが、真実に近づけば近づくほど、すべては夢で本当は何もないのだ、と実感すると”同時に”、日常生活の一つ一つの出来事がとてもリアルに感じられるようになります。

日常の何気ない出来事(人との関わりや自然との関わり)から感じ取る質感のようなものがとても厚みを持ってきて、それらを体験すること自体から深い満足感を得られるようになってきます。

この唯一の現実だと思っていた世界が、同時に、空(くう)でもある、夢でもあるとわかると、それまで必要以上に人目を気にしたり、結果を心配していた気持ちが小さくなって、目の前の現実だけに意識を集中させることができるようになり、結果としていろんなことがうまくいくようになったりするのです。

世界は複数の次元から成り立っている。その複数の次元を自由に行き来すること、あるいは、複数の次元を同時に意識しながら生きていくことが、とても大切です。物質的なものに過剰に頼らなくても、内側からの幸福感、理由のない幸せを感じながら生きていく道がそこにあります。

これは自分では体験したことのないことですが、ルパート・スパイラも「自分とは本当は何であるかが分かると、自分をめぐる現象はなぜか奇跡的な協力を見せるようになる」とよく言います。

個人や世界が本当はこれまで思っていたような意味では存在していないということと、そういったことが両立してしまうというのは面白いパラドックスだなと思います。

このことと、原発事故をめぐる自分の混乱がどう関係あるのか全然分かりませんが、とりあえず分かろうとせずに今日は放っておこうと思います。

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