脳と意識 グレッグ・グッド

 
グレッグ・グッドが準備中の書籍 Direct Inquiryに関連して、脳と気づきに関する面白い記事があるのですが、グレッグの許可をもらったので翻訳して紹介します。

意識が脳の産物であるという一般的な見方に対して、そうではないということを伝えているものです。ミニ実験も使われています。

Awareness and the Brain

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意識と脳

気づきは脳から生じているのか?

この記事は、クリス・ヘバードが序文を書いている、私の次回作『Direct Inquiry: A User Guide』(Nonduality Pressから刊行予定) からのものである。この本では、意識に関する多くの実験を扱っていて、さらに、自分の経験を解釈する上では役に立たないけれども一般的なやり方、自己疎外や分離を引き起こす原因となるそうしたやり方の多くを解説する図解も載せている。

脳についてのこの文章は、身体を取り扱う大きな項から抜き出したものだ。身体については、非二元の教えや文章やミーティングではあまり扱われていない。しかし身体は、感情や思考や感覚と同様に、経験の一部なのだ。

私たちのいまここでの直接的な経験では、実際、次のようなことが直接示されている。

  • 「身体」は、物理的な対象物ではない。
  • 「身体」は、分離した感覚性を与えられている分離した対象物ではない。
  • 「身体」は、意識の入れ物ではない。
  • むしろ、身体は、世界と同様に、意識そのものである。

これが意味するのは、直接的な経験においては、「身体」が実際には愛の身体、光の世界であって、純粋な明晰さ、無条件の開放性であることがわかるということだ。身体は実のところは世界であり、そこに違いを見いだすことはできない。身体は経験の包括的な世界であり、そこには内側も外側もなく、こちらもあちらもなく、分離も苦しみも存在していない。

でも、脳についてはどうだろうか?信頼できる科学者の多くは、意識は脳内の化学成分の産物であると言う。それについてはどうなのだろうか?

ここに示すのはプレビューだ。

「我々の左右の耳に挟まれた部分にある桃色がかった灰色の中身が、経験的な意識の豊かさをつくりだしている。」 ― Sciencd and Nonduality Conferenceのウェブサイトより

「大学で私は脳を解剖した。学部では私は生理学的心理学を専攻していた。多くの人が、非二元論に魅力を感じている人たちでさえもが、意識を生じさせているのは脳であると考えている。しかし、私たちの直接的な経験からそのように言うことはできるだろうか?」 ― グレッグ

「非二元性と神経科学との間に矛盾はない。神経科学はとらえづらい対象物を計測する。このとらえづらい対象物とは、一種の感覚性であり、生物有機体と関係する局部的な反応性である。この感覚性は、私たちの本質であり私たちの直接的な経験であり無限の芳香であり無条件の愛であるところの観照意識の中で生じている。」 ― グレッグ

世界

非常に注意深く見てみると、物理的な物体というものを見つけることはできない。そうしたものは意識の中に直接溶ける。私たちが物理的な物体を直接的に経験すると言うとき、それは、色、音、材質感や硬さや柔らかさや湿っぽさや乾燥の感覚を感じているにすぎない。こうした感覚は、その排他的な五感のそれぞれと分離することはできない。言い換えると、

  • 色は視覚と不可分である
  • 音は聴覚と不可分である
  • 感触や硬さや柔らかさや湿っぽさや乾燥の感覚は触覚と不可分である。
  • 味は味覚と不可分である
  • 香りは嗅覚と不可分である

想像の中でさえ、「物体を感じること」は、「感覚機能」と切り離されては現れることはない。このことが「心底から理解された」とき、これは衝撃的なこととなる。たとえば、視覚と切り離されては色は決して経験されないということが深く理解されたとき、「色を見る」ことができるという信念はまったく意味をなさなくなる。色は、意識の外側でぶらぶらしながら見られるのを待っている対象物ではない。むしろ、色が生じることが、私たちが「見る」という言葉によって表現していることなのだ。日常的な感覚で、見ることについて私たちが普通話すとき、そのときに見られているか見られていないかには関係なく物体は存在しているのだと考えている。日常的な感覚では、あなたの猫が寝室から出て行ったとしたら、猫は存在しているけれどもそのときは見えていないのだと考えることだろう。猫が見えていることもあるし、見えていないこともある。見えていないときは、単純にそれは「どこか別の場所」にいるのだと。

だがもちろん、私たちの直接的な色の経験においては、見られていない色というものは決して経験されていない。色の不在というものは決して経験できない。もし色というものが、それが不在である状態が経験できないような何かであるとしたら、それは存在するものとして経験できるような種類のものではありえない。色は、その他の「生じるもの」と同様に、存在する状態と存在しない状態のあいだを行ったり来たりするような種類のものではない。片面しかないコインは存在できない。もし一対の相反するもののうち一方を存在させられないとすれば、もう一方も存在させることはできない。よって、「存在」も「不在」も、生じるものには適用できない。

これが私たちの直接的な「世界」の経験である。それは存在しているわけでも不在であるわけでもなく、意識そのものとして経験されている。

脳は通常、ある種の生物組織のかたまりであると考えられている。つまり、脳は物理的な物体であると普通は考えられているということになる。物理的な物体として、脳は「世界」の一部である。脳はどのように生じるのだろうか?何が起こるのだろうか?自分の脳を自分の視覚で見ることができる人はいない。私が学校でしたように、自分以外の生物の脳を「見る」ことや「感じる」ことはできるかもしれない。私たちは解剖学の授業で脳の様々な画像を見たり、CATスキャンやX線を用いた脳の画像をスライド用のライトテーブルや教科書で見たり、顕微鏡やいろいろな種類の計測器によって描写されたものをコンピューターの画面で見たり、医者と警官が出てくるテレビ番組でも脳を見たりする。

これらのすべてにおいて現れているのは、視覚的なあるいは触覚的なイメージである。しかし生物学者と生理学者は、脳は感覚性にとって本質的な構成要素であると言う。非二元の教えに惹きつけられている人の多くも、これに同意している(最初の引用文を参照されたし)。

脳科学で測定されている「意識」には以下のようなものがある。

  • 刺激に対するある種の反応性
  • 視覚、聴覚、嗅覚、動作などの能力
  • 話したり、口頭報告をしたりする能力
  • 物体や行動を想起する能力
  • 自分の名前や位置を報告する能力
  • 化学作用の測定
  • 諸々の科学的装置によって測定され描写されるニューロンの活動とニューロン内の活動

意識の記述におけるこうした要素について、ふたつのことが言える。ひとつは、これらの要素がすべてテーブルや椅子と同じような物理的な物体として扱われているということである。あなたはこうした要素や出来事のどれについても、それがどのように生じるのか、一連の色、音、手触り等としていつでも調べてみることができる。となると、意識の中で生じるものとして経験されているものである脳が、どのように実際に意識を生じさせることができるだろうか?それは、「青」という色が意識を生じさせることができると言っているようなものだ!

意識 vs 感覚性

もうひとつ言えることは、こうした方法で測定される「意識」は、非二元論者が言う意識とは異なるということである(太文字がそれを証明している!^_^)。科学者たちがこのような手法で測定しているものは、比較にならないほどまったく精妙ではないものである。こうしたものは感覚性であり、目が覚めている状態、アドヴァイタ・ヴェーダーンタで言うところの「ジャグラット・アヴァスタ」である。この目が覚めている状態は、夢の状態(スシュプティ・アヴァスタ)や深い睡眠と交互に入れ替わる、やって来ては去っていく微妙な対象物である。

そして、この目が覚めている状態は、私たちの本質である観照意識に対して生じている。次の表は二つの違いを示している。

目が覚めている状態の感覚性 観照意識
観照意識によって感知される 目が覚めている状態の感覚性を感知する
やって来て去っていく やって来ることも去ることもない
科学で測定される 測定し、科学はそこに現れる
他の対象物と共に現れる 現れることも消えることもなく、対象物ではない
一人の人に少なくともひとつある 一つ以上あることはない。これ自体が言い過ぎだ!
これが存在しなくてもあなたは存在する これがあなた。意識としてのあなたは存在しないことがない

脳と感覚性

神経科学では、脳の部分と、目が覚めている状態あるいは夢の状態の感覚性のいろいろな側面との間に、実験に基づいて相互関係性を見いだしている。多くの探求者が私に言ったように、「そう言うなら、私の脳を取り去ってみてくださいよ、そうしたら意識は終わるんだから!」ということだ。それは目が覚めている状態の感覚性のある一定の期間が終了するということかもしれないが、それは非二元で語られている種類の意識の終わりではありえない。

それはなぜか?それは、そのように言っている人の脳を取り除くということそれ自体を出来事として認識するためには、そこに観照意識がなければならないからだ。もちろん、脳を取り除かれた人は必ずしもそこに存在しているわけではないが、非個人的な観照意識が不在であることは決してない。全宇宙が消えたとしても、意識はそれと共に消えうるような存在あるいは物ではないのだ。そもそも意識は物ではない。意識は、宇宙が現れて消えていくという現象がそこにあらわれるそれなのだ。何が現れて消えていくかに関係なく、意識はある

ちょっとした実験
「意識は脳から生じるか?」

(実験に必要なもの:快適な椅子、テーブル、もし可能であれば、ネットで探して印刷した脳の写真か図)

つぎの手順に従ってほしい。

  1. 椅子にゆったり座る。あなた自身から始め、あなた自身と宇宙の他のすべての存在の幸福を願う。そしてしばらくの間、呼吸を見守る。思考が現れたら、来ては去るのにまかせる。思考を追いかけることも、分析することも、追い払うこともしない。それはしかるべきときに消える。
  2. テーブルを見る。テーブルの質感を感じる。それは色として視覚的に生じている。それは質感、あたたかさや冷たさ、硬さや柔らかさとして触覚的に生じている。こうしたことはすべて直接的に経験され、広く澄んだ意識のなかに自由に生じる。
  3. 色が非個人的な観照意識を生じさせているように見えるだろうか?色が見られることによって観照意識が現れる、というような因果的なプロセスが起こっているのを実際に経験しているだろうか?そんなことがありえるだろうか?意識がすでに存在していてプロセスそのものを感知しているときに、プロセスが意識を創りだすことがどうしたらありえるだろうか?
  4. 質感が観照意識を生じさせているように感じるだろうか?テーブルに関連する質感とは別に、観照意識の存在を創り出せるような何かが直接的な経験において存在しているだろうか?そんなことがあったとしたら、どんな感じだろうか?この創造的なプロセスが現れるためには、観照意識は最初から存在しているのではなかろうか?そうならば、プロセスがどうやって意識を創造しうるだろうか?
  5. このステップは3と4に類似している。印刷した脳の画像を非常に慎重に見てみる。想像の助けとして役立つかもしれない。「本当の」脳を直接見ているのだと想像する。神経外科の手術を手伝っているところかもしれない。私たちは、直接的な経験においては、物理的な物体というものは色や触覚の感覚や音などにすぎないと理解している。そして、色や感覚や音でさえ、そもそも分離した対象物ではない以上、実際には「生じる」ということはない。ただし、今だけこうした視覚や触覚の感覚の観点から話すことが許されるとして、直接的な経験を確認してみよう。こうした感覚は、甘く広く愛に満ちた観照意識のなかで、その意識に対して生じている。
  6. これらの特定の「脳の色」が観照意識を生じさせている、ということを直接的に経験しているだろうか?そのような因果的なプロセスがあるとしたら一体どんなものだろう?仮にちょっとのあいだ、これらの色が意識を生じさせているという直接的な経験をあなたがしているとしてみよう。その場合、この直接的経験はどこで現れているのだろうか?因果的なプロセスが生じるよりも前に、観照意識はすでに存在している。つまり、プロセスはどうやっても、そのプロセスより先に起こっている観照意識の原因になることはできない。

結論

私たちの経験では、観照意識が存在していないということはありえない。したがって、私たちの直接的な経験から言えば、観照意識が因果的なプロセスによって発生するということはありえない。プロセス自体が観照意識の中に現れなければならないが、その意識は「最初から」存在していた。意識はつねに存在し、はじめから存在している。

非二元と神経科学のあいだに矛盾はない。神経科学はとらえづらい対象物を計測する。このとらえづらい対象物とは、一種の感覚性であり、生物有機体と関係する局部的な反応性である。この感覚性は、私たちの本質であり私たちの直接的な経験であり無限の芳香であり無条件の愛であるところの観照意識の中で生じている。

非二元と神経科学。この二つは、違う種類の歌だと考えることができる。

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