グルの時代の終焉 グレッグ・グッド

 
最近、グルについて、そしてグルと弟子の関係について考えることが多いです。考えていてもどうにもならないのかな、という感じもしますが、グレッグ・グッドによる面白い記事を見つけたので、翻訳して紹介したいと思います。

From the Age of the Guru to the Age of the Friend

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グルの時代から友人の時代へ

最近あるグルが私にこう告白した。「いやあ、自分は悟ってるけど他の人は悟ってないってのは違うんだと分かったら、サットサンをやるのがまったくつまらなくなったよ!」

グルの時代は終わった。いまは友人の時代だ。自己知識と解放のメッセージは、それを封じ込めようとするどんなグルの能力をも凌駕しつつある。人々は、このメッセージがそれを伝える人からは独立したものであることにすでに気づいてきている。このメッセージは、その古臭くて排他的で特権的な舞台装置から切り離されるようになった。権威者集団からメッセージをいただく必要などない。近頃では、解放のメッセージは人から人へと水平に広がる。その動きは滝というよりもむしろ大洋のようだ。それはオーク(ナラ、樫などドングリのなる木)というよりも根茎のように成長する。

もちろんグルはそれでも存在している。友人たちがいる限り、グルたちもいつづけるだろう。将来も常に、素晴らしい教師、人々を励ます手本となるようなグルたちが存在し続けるだろう。しかし、近頃では友人がますます同じような役割を果たすようになっている。友人は、自己知識のメッセージを広め、慈愛でハートを開き、熱意とともにまわりの人に影響を与えている。

グル方式の変形

グルから友人への転換は、単に誰が刺激するのかという問題ではない。それは、情報に関することでもある。私たちは、以前なら選ばれた人たちにしか手が届かなかったり非公開だったりしたようなものに、より自由にアクセスできるようになっている。自己知識についてのメッセージは、通信手段さえあれば、興味がある人には届いている。そして、この伝達は、もはや狭帯域(ナローバンド)のグル周波数を通して行われる必要はなくなり、そこからあふれて広帯域(ブロードバンド)のものになっている。

これによって、グル方式は、より民主的で非集中的な何かへと変形した。カリスマ的資質をあまりもたない教師が沢山出現している。カリフォルニアでは供給が需要を上回り、どこの週末であっても生徒の側は複数のリトリートから自由に選べるようにまでなっている。リトリート主催者は、競争に負けないよう参加費を下げざるを得ない状態だ。そして、生徒はリトリートの翌週になると教わったことをメールで友人みなに伝え、彼らがまたその友人たちに伝える。

グルという言葉が意味するものが変わってきている。伝統的には、このサンスクリット語の言葉は闇(ル)を一掃する者(グ)を意味している。これは主に個人的な関係のなかで理解され、グルは神が肉体の形をとったものとして崇拝され、それは自己実現のための神聖で独占的な導管だった。最近では、この喩えは陳腐なものとなっている。人々は、完全だという評判のある人間に力を貸してもらわない限り自分たちは暗闇に留まり続けるのだ、というイメージを受け入れることを止めた。スピリチュアルな集団においては、グルという言葉は、探求者自身のもっとも奥深い部分にある自己を示すものだ、とされる傾向がますます強まっている。

排他性の差別的性質

解放のことはチベット語でしか語れないとか、言葉は神聖なサンスクリット語の音節から創造されたのだというようなことを、人々は信じることができなくなった。人は「もし私の言語で言い表せないのであれば、そんなことは結局のところ普遍的だとは言えないね」と言う。ほんの30年前までは、自己の気づきの探求者は、解放のメッセージを伝授してくれる人に会うためにインドやヒマラヤへと旅をしなければならなかった。今ではいろいろな手段がある。バーンズ&ノーブル、ボーダーズ、アマゾン、ヤフー、グーグル、携帯電話、そしてブラックベリーもある。選ばれた少数の人たちにしか手の届かなかった教えが、いまでは様々な言語で友人間で楽しそうに共有されている。アシュラムや寺院を訪ね、門番が中に通してくれるまで門前で三日間も待たなくてはいけなかったのは、つい数十年前のことだ。今では同じメッセージがカフェでも居間でもウェブのチャットルームでも、そして刑務所にいても手に入る。より若い世代のグルたちの中には、この新しい民主的な風潮に合わせて教えを変化させ始めている人たちもいる。彼らは排他性に背を向けて、友情や賢明な普通さを祝福するようになっている。そして残りのグルたちは自分たちの立場を譲らず、古い物語にしがみついている。

欠点と情報

有名人は今ではありふれている。私たちはより多くの人たちのことを以前よりもよく知っている。彼らの欠点や軽率な言動についても目にする。これは、ブロガーやパパラッチ自身が有名になるような今日の情報文化においては不可避なことだ。このようにあふれる情報の中では、従来のグル方式は生き残ることができない。古く崇高なバージョンのグル方式だと、グルは無比であり、おそらく完璧な人類の手本だ。人間の衣を一時的にまとった神性であるかもしれない。グルは神を超えているとまで言う人たちもいた。だが情報量が増えるにつれて、このようなイメージがそのまま残されることはとても難しくなっている。ベジタリアンのはずのグルがチリバーガーを食べているのを見つけられたり、禁欲主義のはずのグルがPR担当者と不倫をしているのが発覚したり、あるいは奇跡を起こせるグルが袖の内側に装飾具を隠し持っているのを写真にとられたりということがあるたびに、高潔な理想がドタバタ喜劇になってしまっている。

グルたちに関する情報は、以前では考えられなかったくらい沢山あふれている。Feet of Clay、Mother of God、Enlightenment Bluesといった書籍には、個人に関する詳細な情報が書かれている。ジェリー・カッツの有名なNonduality.comのようなウェブサイトもあって、非常に幅広い表現を掲載したり、文学や映画のキャラクターを含む多くのグルの名前を列挙することによって、古いグル方式を解体するのに役立っている。そして、Sarlo’s Guru Ratingsのサイトでは、グルに対して自由に主観的で私的な採点をしていて、グルに対するアンチページも掲載している。Jody Radzikのような人もいて、彼は長年に渡ってお邪魔虫であり続け、グルの完全さのイメージが生徒側の理想化によって作られていることを指摘してきている。最近彼はguruphilac.orgというサイトをつくったが、それはグルから逃れてきた人たちによるウェブサイトや雑多なことを伝えるニュース情報ブログで、こうしたものの存在によって、グルを理想化することはとても困難になっている。

でも、エネルギー伝授による悟りについてはどうなのか?

しかし、メッセージに関することのみが問題なのではない。グル方式についての別の切り口は、エネルギー伝授による悟り(EBT = enlightenment by transmission)という概念である。EBT方式では、グルの臨在自体が特別なこととされる。それは情報や語られる言葉とは関係なく、グルがとどまっていると思われている特別な状態に意味があるというものだ。グルがこうした状態にあるということは、グルの臨在のもとで特に多くの人がいるミーティングの場において、帰依者たちが感じる特定の昂揚やエネルギー的な振動によって証明されているとされる。EBT方式によれば、弟子が物理的、感情的、心理的にグルの近くにいれば、グルから弟子へとこの状態が伝授され得るとされる。伝授は即時であることもあれば、長年に渡る漸進的なものであることもある。ただ、この解釈においても、考え方は変化しはじめている。

人々は、このエネルギーと悟りとの関係について疑問をもっている。「このエネルギーは本当に悟りの構成要素となるようなものなのだろうか、それとも悟りとはまったく別の何かなのだろうか?」「このエネルギーが伝授可能なものなのであれば、なぜ至福の感覚が消えてしまって私の中に留まらないのだろうか?」「なぜ、何年も前にブルース・スプリングスティーンのコンサートで感じたような感じを、私はグルの臨在のもとで感じているのだろうか?」「グルの臨在のもとで30年も過ごしたのに、なぜ私は同じエネルギーを自分のものにして他の人に伝授することができないのだろうか?」「このエネルギーと私の関係はなんだろうか?これは誰のエネルギーなのだろう?私自身がエネルギーなのか、それともエネルギーを経験している者なのか?」

西洋では、60年代とベトナム現象の後、権威への依存が少なくなり、硬直化した階層システムに対する忍耐力が低下し、大きな物語に対する信じやすさが弱まった(ジャン・フランソワ・リオタールが『ポスト・モダンの条件』で述べたように)。因果説明は、より根茎的な傾向が強まり、樹木的な傾向は弱まっている。私たちはひとつの原因を探すというよりも、相互作用的なシナリオや関係のネットワークを探るようになっている。

こうした指向は、EBT方式に対する人々の反応の仕方を変えた。心理学、集団力学、人間のエネルギー特性に関する知識が以前より増えている。以前はより神秘的だったことが、もはや神秘的ではなくなった。非常に特別なひとりの人物に起因するとされていたことが、いまでは社会現象に過ぎないと見られるようになっている。たとえば今日では観察者とその人の条件付けが及ぼす影響は、心理学的な解釈において、以前よりも非常に大きな役割を果たしている。これはEBT方式についても言えることだ。100年前にはグルの神的エネルギーだとみられていたものが、今では、強くて同じような信念をもっている人々からの投影に左右されるものだと理解されるかもしれない。グルの特別な輝きとされていたものが、政治家や有名人たちがもっているのと同種のカリスマ的資質であると今では理解されるかもしれない。グルに関するかぎり、投影とカリスマ的資質は期待に左右されるが、そうした期待は社会的環境やスピリチュアルな著述におけるイメージによって形作られる。グルを唯一の人格的な根本原因として見る傾向はそれほどなくなっている。個人間に起こるスピリチュアルな経験は今でも見られるし、他の人を変容させる手助けをする人たちもいる。ただ、今日の考え方では、こうしたことは友人間でより多く起こるものであると認められている。

停電はない

もし、解放のメッセージや体験が、地元のセブンイレブンの夜勤の店員を通してあなたに伝えられたら、それらの価値は薄まるだろうか?源泉に直接行ったほうがいいのではないだろうか? ますます多くの人がこう考えるようになっている。「いや、源泉はいたるところにある」と。人々は、解放を、誰によっても繰り返し伝えられることができる何かだとして理解している。特定の人だけが源泉になれるのだと主張する人がいると、いつでも警告サインが出る。源泉はコンビニエンスストアで見つけることができ、それは丘の上にいるあごひげを生やした老賢者から伝えられるのと同じものだということを人々は今では理解しはじめている。老賢者はウィンクをしている。なぜなら、それこそが彼が初めからずっと言い続けていたことだからだ。

(記事は以上)

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かなり過激な表現だなあという気もしますが、源泉が自分の外にあると信じて何十年も右往左往してきている人々を見続けている人だからこそ、このような書き方になるのかなとも思います。

通信手段の発展というものが、師と弟子の関係を含めていろいろなことを変えているのは確かで、ファンタジーが成立しづらい、ある意味では残酷な時代だなと思います。

ただ、それによって「投影を許さない普通さの恩恵」で書いたような自由が得られるという一面もあるのかなという気がします。

(2015年2月追記: 商業的な迷惑コメントが多いため、一時的にコメント書き込みを停止)

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