思考からの自由 グレッグ・グッド

 
グレッグ・グッドは、現在Direct Inquiryという著作を準備中で、数ヶ月後の発行を予定しているそうなのですが、それに合わせて最近いくつかの記事を発表しています。そのうちのひとつを紹介したいと思います。

Freedom from Thought

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思考からの自由

思考
思考は、ものごとを示すように思われる精神的な副産物である。思考は対象物あるいは指示対象をもつようにみえる。思考は何かについてのものであるようだ。真実であれ虚偽であれ、思考はなにかを主張しているようにみえる。

苦しみ
苦しみとは不服、不快感、痛みである、と定義したとすると、苦しみは、私たちが自身の思考を信じるときに生じる。私たちが自分の思考を信じない方法、特に自分たち自身についての制限的で苦しい思考を信じないための方法はあるのだろうか?

ある種の認知療法では、私たちの苦しみを減らすための取り組みを熱心におこなう。そうした療法では、否定的な思考(すべての思考ではなく!)の量と強さを縮小させ、さらにこうした否定的思考の比率を下げさせようと試みる。

この方法は多くの人たちにとって非常に役立つし、こうした種類の療法はかなり人気がある。しかし、この種の療法では、根底にある思考と信念の構造はそのままにされてしまう。結局のところ、まともな人間であれば誰が思考も信念も全部捨ててしまおうなどと考えるだろうか?それに、何といっても、それをやろうとしても、どうやって出来るというのだろう?

詳しく調べてみよう。

信念
思考を信じるとはどういうことだろうか?それは、思考についての意見をもつことに似ている。あなたはある思考を、本当であって守るに値するものだとみなす。たとえば、次のような思考をもっているとしよう。

T1「××先生の道は、すべての道の中で最も非二元的なものだ」

そして、信念が別の思考として生じる。

T2「T1はいかにも真実だ」

究極的には、信念はつまるところある思考についてのある思考ということになる。

思考は示すことも参照することもない
ただ、ここに皮肉がある。あなたの直接的な経験によれば、思考は実際には何ごとをも参照していない。思考はそこから這い出して別の何かと接触するということはない。思考は対象物に触れない。思考は思考同士で触れることもない。チョコレートケーキについての思考は、本当の、真に存在し、独立したチョコレートケーキに触れることは絶対にない。あなたが最も接近できるとしても、それは色の感覚、甘さ、粘着性、おいしさ、といったところまでだ。そうした感覚がいくらあっても、実際のケーキが見つかるわけではない。

そして、もっと詳しく調べてみて、観照する気づきの直接的経験のなかにそうした感覚を見出そうとしたときには、感覚でさえも見つけることはできない。

また信念へ
信念-思考も、なにかを参照することはない。思考は参照しない。T2はT1を参照していると主張しているが、実際にはそうはしていない。それはなぜか?T2はT1に出会うためにそれ自体から離脱することはできない。T2が「そこ」にある間は、T1はそこにあることはできない。T1は参照されようにもそこにないのだ。

このことはいつでも直接的な経験のなかで再現することができる。

思考は家に戻る
では、T2には何が起こるのだろうか?それは沈黙し、気づきとして気づきに戻る。気づきこそが、思考が「指し示している」唯一のものなのだ。それは、気づきという家へ戻ることによって、指し示す。

このことが心底から理解されたとき、思考と信念の構造は崩壊し、気づきとしてのあなた自身の本質の明晰さがあらわれる。

(記事は以上)

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思考を用いてこのように思考について考察するというのも変な話ではありますが、なんとなく面白いです。

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