ルパート・スパイラのリトリート (5)

 
リトリート4日目、後半に入り、場に慣れてきた感じがありました。

朝のヨガの後、朝食をとり、それからリトリートに来ているいろいろな参加者の人たちについて考えていました。

参加者は20代から70代まで幅広く、男女比も多少女性が多いくらいでバランスがとれている感じだったのですが、僕の目に印象深く映った二種類の人たちがいました。

一つ目のグループは長年探求を続けている人たちです。中には、60年代から「この道」に入り、シャクティパットグルとして有名だったムクターナンダ、OSHO(ラジニーシ)、パパジ(プンジャジ)、ラメッシ・バルセカール、ニサルガダッタ、そして最近はムージやセイラー・ボブなど、いろいろなグルをずっと追いかけてきた人もいたり、そこまで遍歴を重ねていなくても、数十年に渡って探求が続いているという人たちが何人もいました。

この人たちはいずれも頭が良さそうで、いわゆるシャープなタイプのように感じたのですが、独特の疲労が見られる気がしました。戦国時代の財宝を探して山を何十年も掘り続けている人たちの姿と重なるようにも思いました。だから何、ということはないのですが、そこに感じられる残酷さと滑稽さには強い印象を受けました。

それともう一つ印象に残った人たちというのは、いわゆる一瞥を体験した人たちです。自分が存在しないとか、私はそれだ、というような経験を一度から数度味わいながら、いまだに探求が終わっていないというパターンで、ここにもある種の疲労と、自分では捕まえられないものをひたすら追いかけていることの狂気じみた色合いが見られて、なんとなく残酷な感じがありました。

こうした人たちには昨秋のSANDやその後参加したいくつかのミーティングでも出会っていて、同じような印象を持ったのですが、探求ということの本来的な性質(探している者が探されているものであるということが見えないことから始まる)を示しているようで、なんとも言えない気がします。

この日の昼と夜のセッションで語られたことはこんなことでした。

  • 自分のすべて、思考、感覚、知覚を気づきの無限の受容の空間にオファーするということ。気づきはオファーされたものを拒否したりジャッジしたりせず、ひたすら受け入れ続ける。
  • 対象物への欲求と、真の理解への欲求は異なるものである。真の理解はマインドによるものではなく、マインドの不在とともに起こる。それは時間を超えたものであり、それが起こったとき、それが何月何日何時に起こったということは決して言えない。
  • (ジャッジすることに関するセラピストの質問に対して)ジャッジするということは本来ありえない。なぜなら行為はただ起こっているから。たとえばアルコール中毒の患者が会いに来たとき、それを問題として見ずに、気づきとして見ることは可能である。そのときにはジャッジによるアドバイスが起こるかわりに、何か自然に出てくるものがある。「AAに行ってみませんか」だったり、「ちょっと散歩してみませんか」だったり、何が起こるかは分からない。前もって問題に対する解決パターンを準備するのではなく、気づきとして存在し気づきの表現として相手を見るということ。
  • 愛とは何か。それは溶けることである。自然との愛は美と呼ばれ、人との愛は愛と呼ばれるが、それは同じように自分が溶ける経験。マインドが溶ける経験は理解と呼ばれる。
  • 理解はあまりにシンプルすぎてマインドにはつかまえることができない。正解は常にマインドが向いているのとは逆方向にある。
  • マインドは存在していない。それは、そのときどきの思考にすぎない。ただし、マインドがあると考えている段階においては、マインドの存在は方便としては使える。というのは、「唯一存在するのは意識のみである」だけが提示されても、何も起こらないからである。

この日、寝床につきながら、どうしてもマインドが理解しようと頑張ってしまうということを強く感じていました。それはいいことでも悪いことでもない、ということは理屈では分かっているような気がしながら、そうやって物分りがいい振りをしたがるマインドの姿をまた確認して、苦笑いするしかないという状態でした。

その6はこちら

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ルパート・スパイラのリトリート (5)」への2件のフィードバック

  1. 「マインドが溶ける経験は理解と呼ばれる」とは、うまいこと言いますね。

    理屈でなく体感的な理解は自分が変容することと同時に「起こる」

    。。。というか、自分であったものがそれになるってかんじでしょうか。

    (それになるのがそれを理解することと呼ばれる?)

    なんかすごくぐにゃぐにゃずるずるしてスライムが器から出て行っていろんなものに変容していくような感じを受けました。

    考え直すと全部違うような気がしてくるので、考えずに「送信」

  2. 「考え直すと全部違うような気がしてくる」とは面白いです。
    僕も推敲などしてしまうと、本当に最初に何が書きたかったのか分からなくなります。

    「それになるのがそれを理解することと呼ばれる」というのは、なんとなく分かる気もします。

    理解の気持ちよさというのは、僕にとってはプールで耳に詰まった水がとれるジワーっとした快感に似ています。ピカーン!と分かるというのは大抵後から考えると違ったりするのが面白いです。

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