ルパート・スパイラのリトリート (3)

リトリートの二日目は、朝のヨガで始まりました。ルパートのパートナーであるエレンがリードするもので、普通のヨガとは違って、あまりアーサナをせず、どちらかというとあまり動くことなく体験や感覚を吟味するという感じのものです。

ここで気がついたのが、自分という感覚がどこにあるかということについてですが、確実にそれは身体の前面にあるということです。

側面とか背面には、あまり自分という感覚がありません。そこに注意を向けようとすると、なぜか思考が次々と出てきて、背面への注意は長続きしません。これは面白い発見でした。

サッカー選手は自分の肉体とはどういうものか、という感覚が普通の人とは違って、たぶん脚が大きなウェイトを占めているような感じになっているんだろうなあ、と以前から感じていましたが、それを思い出しました。

それと、呼吸に注意を向けているときに感じたのは、呼吸は身体で行っているものでも身体内のものでもなく、それはただそこで起こっていることなのかな、という漠然とした感じです。内と外という感覚が曖昧になった気がしました。

そしてヨガの後の昼のセッションの前に、ルパートと一言二言だけですが言葉を交わしました。

それは、僕の「こういう自然の豊かな環境で探究を行うのと、たとえば雨のロンドンの夜の地下室で行うのとでは、違いがありますか?」という質問に関するものでした。

ルパートはこのように言っていました。

「環境は本質的には関係ないし、探究はいつでもどこでも行うことができる。ただし、一緒に探究を行う他の人たちの存在は助けになるので、リトリートという場はその意味で役にたつ。それと、日常のことから解放されているという状態、また、日常のことを思い起こすきっかけもあまりないような状態ということにも意味はある。」

そんな答えを聞きながら、問いが出た元のところがすでに無くなっていることに気がついたのは面白いことでした。

この日の昼と夕のセッションで語られたのはこんなことです。

  • 自分のまわりに他の人がいて、そこには自分とは違う意識が存在していると感じるのは、単にそのような知覚が起こっているにすぎない。それにはそのような知覚が生じるということ以上の意味はなく、それがリアリティを示しているわけではない。
  • 経験の真の性質というものを理解することは一朝一夕にはいかないことが多い。布を染めるときのように、染料につけて乾かし、また染料につけて乾かすということを何度も繰り返して、はじめて布は染料のような色になる。
  • アドヴァイタは現在ファッショナブルであるとされている面もあり、他のスピリチュアルなことよりもトレンディであるという風潮さえある。が、概念、観念としてのアドヴァイタは、分離している自己という感覚がある限りは、分離を固定化させるだけでなく、それを巧妙に隠蔽し問題を深くしてしまう。
  • (自分の経験に基いて、リアリティというものがこれまで考えていたものと違ったということを理解したが、その理解と自分の従来の理解を整合させるのに苦労している、という質問に対し)新しい理解を古い理解と整合させる必要はない。自然に新しい理解が必要な位置を占めていく。
  • すべての対象物の無意味さが完全にわかったとき、平安・愛・幸福がすべてのものの中にその姿を現す。
  • あるがままの否定、あるがままへの抵抗が探求であり、探求が分離や時間(未来や過去への投影)を生む。
  • 理解は外からもたらされるものではなく、内側から生じるもの。理解がおこったとき、分離は崩壊する。
  • 経験の真実を確かめるために、二つのステップをとることができる。最初のステップでは、自分が世界を見るときのように、身体/マインドを世界をみるのと同じ距離で見る。そのことで、身体やマインドとの同一化を相対化することができる。次のステップでは、世界や身体/マインドの実体が自分(気づき)であることを理解する。最初のステップは真実を示しているわけではないが、第二のステップのために役立つものである。

この日、夕のセッションの後、静かに過ごしたい感じがとても強く、夕食は他の人と離れて独りでとりました。

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