ルパート・スパイラのリトリート 2011年2月 (1)

 
アメリカ西海岸のサンタバーバラで開催された、ルパート・スパイラのリトリートに行ってきました。5泊6日で、La Casa de Mariaというリトリートセンターで行われました。

リトリートということで、気が散るといけないと思ってPCは持っていきませんでした。戻った今、思い出しつつ、そしてノートを見直しつつ、何日かに分けてこのリトリートについて書いてみようと思います。

毎日の出来事について触れる前に、全体的な感想をまずは書いておきます。

  • ハート
    行きの飛行機で『最後の忠臣蔵』を見てボロボロ泣いてしまってから、帰りの飛行機でスペイン映画『Anything You Want』を見てまた涙を流すまで、今回はずっとハートが震えて、気がつくと涙があふれているという状態でした。会場となったリトリートセンターは2月というのにカラフルな花と緑であふれていて、その光景を眺めているだけでなぜか泣けてきて、セッション中もふとした沈黙の瞬間にあふれている暖かい何かに気づいてまた涙、といった感じでした。静かで圧倒的な愛に浸されていたという印象です。

  • あれ?
    家に戻ってから妻と日常的な話をしているとき、ふと、「あれ、何を真剣に話しているんだ?」という感じで何度も可笑しくなっている自分に気がつきました。「何と同一化しているんだ?」という面白い感覚です。以前もそのような感覚を感じたことがあったような気がしますが、そのときは可笑しくはなかったので、今回の笑える感じはちょっと面白いです。リトリート中はそういうことは感じませんでした。
  • つかみがたさ
    セッション中、経験の本質というものを探究するために、ダイレクトパス的に実際にいろいろな指示と共にひとつひとつの経験を調べるということをしました。途中で、何度か、「あれ?」という不思議な感覚におそわれることがありました。が、何かがわかりそうだ!と思った途端に、それが手から滑り落ちるということを繰り返しました。このつかみがたさが何とも「やめられない止まらない」という感じでした。
  • 外国
    リトリートには三十数人の参加者がいて、ほとんどがアメリカ在住の白人で、英語ネイティブでない人は数人だけという感じでした。そうなると、会話についていくのに一生懸命になってしまい、終盤になって「もう分からなくてもいいや」とあきらめることができるまでの間、かなりエネルギーをそちらに向けていた印象があります。だらしない姿勢をして質問をしていたり、最前列の前でゴロゴロしながら聞いていたりという、アメリカならでは(?)の光景にも、余計なジャッジのエネルギーを使ってしまい、最初は疲れました。
  • 原理主義
    日程が始まる前に、自分の中ではトニー・パーソンズ系の原理主義的なアドヴァイタというもの(誰も存在せず、行為も達成すべきことも何も存在しない、という表現)と、理解を得るためのプロセスというものはあるという立場との狭間で、どちらが正しいのかという疑問がありました。が、いまは割とすっきりしています。ルパートが、分離という感覚がある以上は空間も時間もそこには存在していて、分離しているという感覚があるのに「絶対しかない」と言い張るのは単なる概念の上塗りに過ぎず、見かけ上のことではあったとしても、そのレベルにおいては必要なことは行えるし、結局自分では何もやっていないとしても自分がやっているという感覚がある限りは自分でやっていていいのだ、と明快に述べていて、それが腑に落ちました。
  • 経験
    参加者の中に、過去にいわゆる覚醒経験、自分がないという経験をした人が何人もいて、その人たちの話を聞く機会があったのですが、その結果、そうした経験のやっかいさということを痛感した気がします。中には30年以上「経験」の再現を追いかけているという人もいて、見るからに消耗していたり、体験の後で観念的な既成宗教の枠組みのなかで更に混乱したり、またはそこまで混乱はしていなくても、何度にも渡る経験にも関わらず、探求が現に終わっていないという事実に疲れ果てていたりと、覚醒経験さえあれば全部OKということではないんだな、と肌で感じました。
  • マインド
    マインドが何もかもを手柄にしようとしている、という感覚がありありと感じられました。このブログ自体も、マインドのなせるわざというか、いつの間にかマインドにハイジャックされていたということに、ある夜中に気がつきました。それで、一瞬、とりあえず少なくとも当分は中止しようという気持ちになりました。でも、いまこうして中止せずに書いているのは面白いです。多分、止めるとしても、それ自体もマインドの餌になるのでしょう。結局、マインドやエゴがいけないということではなく、それとの同一化があるかないかということがポイントなのかなと思いました。
  • 身体と感覚
    リトリート中、毎朝1時間のヨガの時間がありました。非二元でなぜヨガ?という疑問があったのですが、これはヨガといってもアーサナ重視ではなく、非二元の理解を感覚面ですすめるためのものでした。ルパートではなく、パートナーのエレンという女性がリードしていたのですが、面白い体験でした。ルパートが、二元性というものは10%がマインドレベルにあり、残り90%かそれ以上は感覚のレベルに根づいているのだと何度か言っていて、それがほのかに感じられた気がします。
  • 生きている理解
    今回、とても強く響いたルパートの言葉にこんなものがあります。「いくらもっともらしく聞こえる非二元の言葉を語っていても、それが発せられるもとの場所に二元性があれば、伝わるものは二元性となる。逆に、アドヴァイタ警察につかまりそうな二元的なことを言っているように聞こえても、それが非二元の深い理解に基づいて表現されているのであれば、伝わるのは非二元性だ」ということです。今回、まさにこれを体験した気がします。ルパートが食事中にイングランドのプレミアリーグの話をしていても、または、単に食堂で食べ物を選んでいても、そこで表現されていたのは、ルパートが気づき/意識に固有のものであると常に言っている平安、愛、幸福だったように思います。

いま思い出すのはこのくらいなのですが、明日以降、毎日のセッションの内容や気がついたことについて書いていくことにします。

その2はこちら

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