ダイレクトパス グレッグ・グッドのインタビュー

 
グレッグ・グッド(Greg Goode)が2009年のSANDで受けたインタビューが面白いので、翻訳紹介の許可をもらいました。インタビュアーはPaula Marvellyさんです。

ラメッシ・バルセカールの教えで欠けていると彼が考える点や、サットサン型ネオ・アドヴァイタでみられる罠についても触れられていて、かなり興味深いです。

An Interview with Greg Goode

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グレッグ・グッドのインタビュー (SAND 2009にて)

Q. あなたは「ダイレクトパス」式の手法を、ミーティングや教えのなかで提供していらっしゃいますが、正確に言うとそれはどういったものでしょう。そして他の種類の手法とはどのような点が違うのでしょうか?

A. ダイレクトパスは、目標に向かって徐々に段階的に近づいていく必要があるとされる「プログレッシブパス(漸進的な道)」と対照をなしています。ダイレクトパスで取り掛かる地点は、最初から終着点です。誰もがはじめから真理、愛、知識、気づき(名前は異なりますが同じものです)として存在しています。もし疑念や疑問があるのであれば、自分の経験を直接調べてみることで解消することができます。そういう風に調べてみれば、どの瞬間においても人は気づきとして存在していることがわかります。

ダイレクトパスと他の手法とが異なっている点のひとつとして、教え方があります。究極的に言えば師も教えも存在しないのですが、ダイレクトパスでは教えを利用することができます。ダイレクトパスには、世界、身体、心という現実を詳しく調べて、そういった現実が気づき以外のものであったことがないということを示すための実証済みの方法があります。

Q. それは知的なプロセスなのでしょうか?

A. いえ、包括的なものです。経験のなかで他よりも重要だとされるものはなく、状況から取り残されるものもありません。分析もしますが、知覚、身体、感覚、直感、動きと休止、経験のさまざまな側面を調べることもします。

というよりも、ダイレクトパスでは、経験の種類の区別自体がそれほどありません。知性、感情、身体というふうに区別されていたものが、じつは別のものではなく、純粋で確実な全体的なものであることがわかるようになります。

Q. では、このダイレクトパスをどのように伝えていらっしゃいますか? サットサンでしょうか?

A. サットサンはしていません。たいていの場合は一対一の対話形式で行います。グループで行う場合は、セミナー形式が好きです。サットサン式はあまり好きではありません。

Q. サットサン式は好きではないということですが、サットサン式とはどのようなものを指しているのでしょうか?それから、サットサン式のどういったところが問題だと思いますか?

A. サットサン式では、「持てる者」と「持たざる者」のはっきりとした区別が作りだされてしまいます。すべてのサットサンがそうであるわけではありませんが、私が言っている意味でのサットサンは、理解を発展させるための教科書や練習やテクニックを使わずに進められます。基本的には、真理の唯一の伝え手だと宣伝された人物が部屋の前方に座っているという形式です。その人物は自分の経験について語ります。つまり、中心になっているのは教え手の個性です。経験は普遍的なものだという理解を促すような他の道具が何もない状態におかれた参加者は、提供されるのがどのようなものであれ、それにしがみつきます。参加者が教え手の身体的、人格的、エネルギー的な性質に焦点を当てることによって、そこでは教え手そのものが教えになってしまうという事態が発生します。話される内容も、その教え手個人に重点が置かれたものになります。そういった形式では、経験の普遍性はすべての人に本来的にそなわっているという理解がもたらされることはありません。

サットサンでは、経験は、あたかも身体的に不安定で、個別化されていて、人の内部にあるものであるかのように扱われます。そのためサットサン式で参加者ができるのは、先生はたぶんこういう体験をしたんだろうという推定上の経験と自分の経験を比較することくらいであり、そうなるとそういった経験を追い求めるようになります。そうした比較によって、部屋の中には羨望と苦悩の雰囲気が醸しだされます。

そういった比較は皮肉なパターンを引き起こします。うまくいっているかどうかを確認するために、自分がその先生のようになっているかどうかを確認することになるのです。ここで、確認するためのベストな方法は何だと思いますか? それは、自分自身が部屋の前方に座って他の人たちが自分の言うことを聞いているという状況を作り出すというやり方です。これは、自己永続的な共振器になってしまいます。こうした力学のせいで、サットサンに参加しはじめた頃よりも分離感、疎外感、孤独感が強まったという人たちが、私のところに来ていました。

Q. 教えを知的な意味で完全には理解していないような場合に、質問の方向を変えて、「この質問をしているのは誰でしょうか?」と逆に聞き返すようなちょっとしたごまかしを試みる教え手たちもいるかもしれません。その答えは明らかに「私です」なのですが、答えがわかっているのであればそもそも最初から質問などしていないでしょう。つまり、とても微妙な屈辱が発生することになります。そして、質問をした人を大勢の参加者が笑い、質問者には恥をかかされたという思いが残るでしょう。そもそも質問はきわめて真摯で誠実なものだったのにもかかわらずです。

A. そうですね。「誰が尋ねているのでしょうか?」は、たいていの場合は最終手段です。しばらくの間、90年代のおわり頃の話ですが、そういった表現は口先だけの反射的なものでほとんどマントラのようなものでした。人々はいつもお互いにこのセリフをメールでも外食のときでも言い合っていました。もちろんほとんどの場合は、この言葉は質問に答えるものではなくて、質問を回避するためのものです。これをどれほど繰り返しても、未来にまた同じ質問が出てくるのは避けられません。でも、質問の背後にある質問を教え手が理解している場合には、教え手は質問が生じているまさにその場所から質問に答えることができます。そうすれば、質問に対する真の答えが可能になり、それは質問者の中心にいつもあることになり、質問の背後にある欲求が止まることにつながります。

Q. 自己を理解するためのプロセスの一部として、古くからの書物を学ぶのは大切なことだと思われますか?

A. 古いものである必要はないと思いますが、すべての領域を扱うのに十分な深さと幅広さは必要だと思います。もちろん、古くからの書物は素晴らしいもので実績もあって、何度も繰り返し成果を生んでいます。ある人たちにとっては、古くからのものだという事実そのものがその書物の重々しさと権威の感覚を増すことになるでしょう。つまりそうした人にとっては、その書物で伝えられていることは真実なのだという信頼の感覚が生まれることによって、その書物は注意を引くものになるでしょう。そうでない人たちには、古い作品はただ単に響きません。「簡単な英語で表現できないのなら、そんなことに興味はないね」という感じです。悟りは多くの言語に対応しているはずだから、サンスクリット語やチベット語でしか語れないってことはないでしょう!と。

Q. アドヴァイタとはなんでしょうか?

A. アドヴァイタは、サンスクリット語で「二つではない」ということを意味する形容詞です。西洋では、アドヴァイタは意識を第一とする種類の非二元論につけるラベルになっています。それから、アドヴァイタというのは、ウパニシャッドとバガヴァッド・ギーターの非二元的な教えを示す「アドヴァイタ・ヴェーダーンタ」という伝統的な名称の一部でもあります。

Q. アドヴァイタはどのように伝えられるべきだとお考えですか?教師を通してでしょうか?サンスクリットの書物を通してでしょうか?どうでしょう?

A. 情報の伝えられ方の種類が多ければ多いほど、それを受け取る人が教えと共鳴する可能性は高まると思います。人から人に直接伝える方法がより完全な理解に導くケースもあるでしょう。

本やウェブサイトを自分で読むだけではたいていは十分ではありません。アドヴァイタ・ヴェーダーンタでは、ほとんどの教えは節ごとに書物を読み進めていくという形をとっていて、それは口頭での注釈と、生徒と師との間で交わされる質疑応答とで構成されています。注釈はメタレベルのたくさんの注釈を含んでいて、教えについて語ること自体が教えとなって、教えがどのように機能するかを明らかにします。これは、書物にある表面的な教えでは見えなかった部分を見せてくれる隠された教えのようなものです。そして、こうしたことで多くの変化が起こります。これによって学ぶ側の理解は深く広いものになり、教えが言葉だけのものになったり表面的なレベルに留まったりする事態を避けることができます。

最近は状況が変わりつつあるのですが、それでもそういった口頭での注釈の大部分は、伝統的には書き留められることはありません。これはアドヴァイタ・ヴェーダーンタ以外の道でも見られる手法で、それによって教えの伝統そのものが受け継がれていくという面があります。その場にいることによって、ということです。

その結果はどうなっているかといえば、これまでのところはもっとも価値のあることはほとんど公表されていません。インターネットで検索することもできなければ、それについて書店で読んで調べることもできません。本もウェブサイトも疑問に答えることはできませんし、師や愛しい友人との間で起こるような共鳴は本との間では起こりません。ですから、印刷物や電子メディアが情報への唯一のアクセス手段だとしたら、手に入らないものが存在しますよ、ということになります。

Q. 西洋ではアドヴァイタはどのように受け取られているのでしょうか。アドヴァイタにはいろいろな流れがあるようですが、どういったものがあって、どう違うのでしょうか?

A. 西洋では、アドヴァイタというのは、非二元について語っているのがどんな人であっても、そうした人たちを指す言葉として使われています。西洋で見られるいろいろな流れの中には、スワミ・チンマヤナンダとスワミ・ダヤナンダの伝統的な教え、20世紀の三大賢者であるラマナ・マハルシ、ニサルガダッタ・マハラジ、シュリ・アートマナンダ(クリシュナ・メノン)から生じたそれほど伝統的ではない流れ、そしてラーマクリシュナとヴィヴェーカーナンダ、そしてスワミ・シヴァナンダに由来する、ヨガ風味が比較的強い教えがあります。

Q. ヴィシシタ・アドヴァイタもありますか?

A. そうですね、それは修正非二元論ですね。礼拝的な要素の強い道で、シュリ・ラーマーヌジャが起源です。神と探求者は同一の神の本質から作られているものですが、目標は神と一体化することではないとされます。一体化するのではなく、出来るだけ近寄ることが目標とされます。アドヴァイタの人が「私は蜂蜜だ」と言うのに対して、ヴィシシタ・アドヴァイタの人は「蜂蜜であるよりも、蜂蜜を味わおう」と言います。

実際のところ、サットサン式は正統的なアドヴァイタよりも、ヴィシシタ・アドヴァイタに似ています。献身的愛情や、教え手の人格的側面を強調するからです。

Q. いわゆるネオ・アドヴァイタの動きについてはどうでしょうか?ネオ・アドヴァイタをどのように定義されますか?

A. それにネオ・アドヴァイタという名前が付けられる前(ネオ・アドヴァイタの教師たちは自分をそのように呼ぶことはありませんが)、私はその教えを非行為者性の教えと呼んでいました。というのは、そこには一つの前提があるからです。それは、行為者あるいは行為者性は存在しておらず、すべては神によって遂行されているか、そうでなければすべては自動的で自然発生的だという前提です。分離した自己は存在しません。自由とはこの事実を非個人的に理解することであり、その理解自体も、行為者や行為者性とは関係なく、誰に起こるものでもないとされます。

これはじつのところ、50年代から70年代にかけて著作活動をしていた心理学者B・F・スキナーの原理的な決定論、行動主義の教えとそう違いません。最近の非行為者性の教えと同じように、スキナーは感情への執着や内なる「悪魔」の観念から人々を解放するために、こうした教えを使っていました。

でも、90年代の終わりや2001年、2002年頃にはネオ・アドヴァイタについてしょっちゅう耳にしていましたが、最近はそれほど聞きません。私の知るかぎりでは、そういった教えを追いかけていた人々は今では他のことを追いかけています。ネオ・アドヴァイタの語り手たちの多くが何をしたのかは知りませんが、生徒たちはどこかへ行ってしまいました。

Q. それはなぜだと思いますか?

A. 試してみても効果がなかったからでしょう!

Q. もしかしたらネオ・アドヴァイタの教えは、エゴや「私」にちょっと一息つくことのできる場所を提供してくれるのかもしれません。というのは、仕事をしたくないとか、非二元の教えの逆説的な性質がどうも理解できないといったときに、時間稼ぎができるからです。

A. ええ、ただ、ある人たちにとってはこの教えはとても役立ちます。心理的な助けになります。ある非行為者性の先生のことを思い出します。彼は何度もニューヨークに来ていましたが、彼のもとに集まる人の数は年々減少していました。彼のところに通っていた人たちに会いましたが、彼らに共通していた人生の問題がありました。それは罪悪感です。ですから、もし罪悪感が人生最大の問題であって、そこから解放されたいのであれば、非行為者性はその解決には本当に役立ちます。行為者がいないのであれば、罪悪感の土台はなくなります。これにはスキナーも同意すると思います。

からっぽのボートのたとえを聞いたことがありますか?あなたは湖に浮かぶボートに寝転がっています。穏やかな波を楽しんでいて、本当にゆったりとしています。突然、何かがあなたのボートに衝突します。あなたは猛烈に怒りながら起き上がって、自分のボートに今ぶつかったもう一つのボートを見ます。あなたは今まさにオールでそのボートをぶっ叩くところです!そしてあなたは、よく見てみるとそのボートには誰も乗っていないことに気がつきます。怒りは次第に小さくなり、溶けていき、消失します。もしかしたらボートを叩きたいかもしれませんが、人が乗っていると思っていたときほどはボートに対して怒り狂っていないはずです。というわけで、自分自身のボートに誰も乗っていないことがわかると、罪悪感の土台のほとんどが消えます。でもそれは、非二元の認識や、自分の本質の理解とはまるで異なります。非行為者性を理解することは、世界も身体も心も、光や明晰さである単一で分離のない気づきなのだと認識することとはまったく違います。

Q. ラメッシ・バルセカールは Sin and Guilt: Monstrosity of the Mind という本を書きました (邦題『人生を心から楽しむ 罪悪感からの解放』高木悠鼓訳、マホロバアート刊)。ラメッシはまさに非行為者性の先生でした。私は、これは人をとても惑わせる議論だと思います。というのは、これは知的な意味では妙な形で道理にかなっているのですが、究極的には役に立たないように思えるからです。なぜかと言えば、その人自身の苦境は消えることがないからです。

A. なるほど。行為を創造する者はいません。でも現象はあって、身体と行動は存在しつづけ、楽しむ人はいて、主体と客体もあり、他のたくさんの二元性が現れています。というか、行為者はいないということを証明するまさに同じ議論が、実際のところは、すべての物体について同じ結論を導きます。ですが、行為者は存在しないという教えはその手前で止まってしまい、そこまで至りません。その中心となる洞察は潜在的には強力で、役に立ち、助けになり、真実でもあるのですが、それは決して一般化されず、二元的な構造のほとんどは検証されないままで放っておかれます。

実際ラメッシが愛用するたとえの中に、まさにその印象を受けるものがあります。電気のたとえですが、それは行為の自動性を説明するはずのものです。台所を思い浮かべるのですが、そこでは一人は食器洗浄機で、もう一人は電子レンジで、もう一人は冷蔵庫です。こういった機械のすべては、動作するようにプログラムされたことだけをして、それを流れていく電気(意識)によって生命を吹き込まれています。

それはすべての人に流れているのと同じ電気ですが、人は何もしておらず、すべてをおこなっているのは電気です。これによって、独立した行為者性という観念が取り除かれます。でもこれだけではそれ以外の多くのことを説明していません。機械そのもののような物体の多様性は説明されていません。もっと重要なのは、このたとえでは、意識と意識が動かしているものごとの区別に触れていないということです。電子レンジというものがそれ自体意識であることも説明していません。

私自身について言えば、この教えには本当に助けられました。それは、私とは本当は何なのだろうかということを、長年に渡って探求していたからです。私は本当に熱心に、見つけられるところはどんな隅っこでも端っこでも調べました。粗雑な領域も微細な領域もです。身体、心、価値観、記憶、傾向、そして私を私自身にしていると思われるものは何であっても調べてみました。こういった候補のどれも自分ではありえないことがわかりました。行為者はいないという教えに出会うより何年も前に、個別の存在として同一化していると考えられる一つの領域がある、ということを私は考え始めました。それは、決定能力としての自分です。選択者です。人生の軌道を構想するものです。これこそが自分だ!と考えました。私はまさにこの問題を一人で2年間研究し続け、この決定能力を間近で見ようとし、自分のこの手のひらでそれをつかもうとしました。

そのときに私はラメッシのConsciousness Speaksを読んで、この分離した存在が、他のものと同じように一時的で非恒久的で透明な物体にすぎないことを理解しました。自分は個別の選択者だとか、分離した存在だとかいった観念はすぐに溶け去りました。個人であるという感覚はあっという間に消えました。そして、自分の母、恋人、友人、同僚には個人としての本質があるという感覚も消えました。すべて消えたんです!自分では気がついていませんでしたが、非行為者性の教えに接する機が熟していました。私はすでに自分の本質に関する候補を絞り込んでいましたし、他のすべてはその時点までに除外していました。唯一残っていたのは行為者性の問題でした。これによってカードをひっくり返されたのです。

Q. では、誰が行為者なのでしょうか?

A. 本当のところは、行為者は意識そのものでしかありえません。ですが行為者は、反復的な思考、感情、感覚、身体の収縮、喪失や分離や自尊心や罪悪感や罪の感覚、あるいは感情の塊といった形で現れることがあります。ダイレクトパスでは、人の真の自己のこうしたあらゆる候補が調べられ、こういったものが意識に対して現れて観照される対象物でしかないことが明らかになります。ですから、行為者は意識そのものでしかありえません。

ダイレクトパスでは行為者が調べられますが、非常に重要なものとしては扱われません。ダイレクトパスでは行為者性を、引きぬいたら家全体が倒壊するような一種の要石であるとはみなしません。行為者性は、調べるべき多くの対象のなかのほんの一つです。アドヴァイタの重要な著作物であるヨガヴァシシタの冒頭で、解放への手段として自己努力が奨励されているのは興味深いことです。この伝統では、行為者性の感覚を、ある段階においては役立つものとして扱っているという意味です。私はこれに賛成します。探求者が、行為者の周辺の領域を否定せずにすぐに行為者の存在を否定するのは、必ずしも良いことではありません。なぜかと言えば、たいていの場合、自分が何かをしているのだと感じられることはその人の役に立つことだからです。ですから、自分は行為者ではないという信念を身につけるよりも、そういう役に立つことをした方がいいでしょう。行為者ではないという信念を抱えていると、行為をしないように努力するでしょうし、それはよりわかりづらいものであるとは言っても、また別の行為にすぎないからです。行為をしないという行為をすることは、少なからぬ苦しみにつながりかねない虚無的態度です。

Q. あるいは、それは自分自身の行動に適切な責任を負うことを拒絶しているということでしょうか?

A. ええ。そしてよく起こるのは、責任を誰か他の人に転嫁するということです。もしかしたら自分の先生に転嫁するかもしれません。自分を悟らせるのも、解放させるもの、他のいろいろなことも先生の責任だ、と。またはとても狡いやり方でごまかしをするかもしれませんね。自分にとっていいことかどうかによって、誰が行為者であるかを決めるといったように。たとえばですが、もしあなたが私を非難するようなことが起こったら、私は行為者ではありません。一方で、私があなたに対して腹を立てているようなことに関してはあなたを行為者とします。それは親のようなものです。「子どものいいところは全部私のおかげで、子どもの悪いところは全部あなたのせいよ!」というあれです。

Q. あなたが行為者について話しているとき、それは「私」のことを指しているのですか?

A. いえ、違います。ダイレクトパスの教えでは行為者性は中心的な問題ではありません。アートマナンダがある時点で行為者性について触れているのは確かです。もし、自分は行為者ではないという感覚を深く継続的に持つことができれば、それで十分であり、それによって解放されるだろうと。でも、それ以外の沢山のことも同じように人を解放に導くともアートマナンダは言っています。彼は、愛、世界、「私」の感覚、知覚、目覚めていること等を調べなさいと言っています。このいずれもが、十分に深く検討されるならばあなたを解放するだろうと彼は言うでしょう。

ダイレクトパスについて私が気に入っているのは、あらゆる可能性を調査するという点です。経験のひとつの側面を否定しようとするのではなく、経験のすべての側面を調べます。

Q. ダイレクトパスの教えは特定の先生の教えに基づいているのですか?

A. ええ、シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンです。彼は1959年に亡くなりました。

Q. ダイレクトパスの目指すものは何なのでしょうか?ダイレクトパスの特徴について教えてください。

A. 目的は苦しみを和らげることです。アートマナンダが言っていることのひとつは、気づきとしての自分の本質を理解するために、頭とハートを和解させてひとつにするということです。より専門的に言えば、二元性を経験しなくなることだという言い方もできます。もっとも二元的な経験でさえも、それが正しく理解されれば、それは実際にはまったく二元的ではありません。それは単に気づきです。ですからダイレクトパスの教えの多くは、本当は何が起こっているのかということを、自分の直接的な経験によって理解する方法だということになります。

Q. では、あなたはどこにいますか?日常的に本当に実際にどのように世界を知覚しているのでしょうか?

A. 私は二元性をまったく経験していません。でも実際には、それを言うことでさえ言い過ぎです。なんらかの言語的な交流が起こらないかぎりは、何も現れませんし、何も起こりません。ですから会話が始まるまでは、言うことは本当に何もありません。会話が始まれば自然に無意識に会話は続きます。ですから私は二元性を見ていません。メキシコ料理が好きなことについてとか、新しい靴のこととか、そういったことを話すことはできますが、それは非指示的なものです。つまり、話を外部の現実を映す鏡としては見ていないということです。それは、音楽が美を明らかにするようなものです。

Q. ということは、ある意味で探求は終わったという意味ですか?

A. もちろん、ずいぶん前に終わっています。そうは言っても、したいことも読みたいことも学びたいこともまだ沢山あります。

Q. そして、心は休息をとっているということですか?

A. 心は気づきにほかならないことが理解されています。心が気づきにほかならないことを見るのは簡単なことです。というのは、それを探してみても見つけることはできないからです。心を見つけようとして私がもっとも近くに寄れたのは、本当に眠い状態と、起きてコーヒーを飲んだりジョギングをしたりするときの状態の違いを見たときで、そのときは心の速さと明瞭さに違いがあることがわかりました。でも、そこに何らかの存在を見つけることは不可能です。伝統的な教えでは、心は呼吸に従うということについて語ることがよくありますね。呼吸が本当に速いときは心も速くなって、反対に心が忙しく速いときは呼吸も速くなります。思考の他に心を見つけることはできません。思考でさえも、見つけることはできません。私たちは心のことを、物質主義的なたとえを用いて、瓶か包みかバケツについて考えるときのように考えます。思考は何かの容器に入っているものに違いない、と私たちは考えます。でも、思考が概念の構築物以外のなにものでもないことを理解するのは非常に簡単なことです。

Q. では、エゴとは何で、それは心とはどう違うのでしょうか?

A. エゴはダイレクトパスでは使われていない用語ですが、エゴは何か特定のものと同一化すること、または分離した自己の感覚としてみることができます。それは、自分がどのようなものであれ、それが世界や自分以外の似ている者たちから分離しているという感覚です。この感覚は、思考、感情、感覚、願望、希望、恐れ、欲求、それから身体内の収縮や震えといったものすべての集合体であるかもしれません。そしてそれは、それ自体として独立した存在であると私たちが感じる何かとして具体化します。この時点で、この何かは、養われ、維持され、なだめられ、守られる必要のあるものになります。スピリチュアルの世界においても、愉快なことが起こればそれが何であれエゴは自分の手柄にしようとします!

ダイレクトパスでは、自己の感覚と心の感覚の両方を調べ、そのいずれもが見かけどおりのものではないことを見ます。それどころか、そういったものは、観照している気づきに対して生じている薄い何か、心象、見かけです。こういうものは現れては消えていきますが、気づきとしての私たちの本質が不在であることは、ずっと絶対にありません。

Q. では、あなたのところに来る人たちには、どのようなことを提供されているのでしょうか?

A. 敬意、傾聴、明晰さ、ユーモア、現実性、それから、どの瞬間においても私たち自身の経験は最も傑出した賢者たちが示した真理を裏付けていることを理解するための方法です。

Q. では、あなたが人に与えられないものは何でしょう?

A. 余計な添えもの、権力、カリスマ性、といったようなものです。

こうしたものを提供できないために、そういう要素を求めている人たちはどこか別のところに行ってくれます。たとえば、ダライ・ラマを訪問したサットサン好きの人たちを知っていますが、こんなことをよく聞かされました。「先週ダライ・ラマに会ったんだけど、何もなかったよ。特別な感じは全然受けなかった。」 彼らは知る由もないのでしょう。ダライ・ラマの歩む道においては、人々は修行し、また修行し、瞑想し、また瞑想しますが、その目的の一つが、まさにそのようになること、特別でなくなることだということを。

(インタビューは以上)

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最初の方にある「究極的には師も教えも存在しないのですが、ダイレクトパスでは教えを利用することができます。」という部分のニュアンスがよく分からなかったので、意味を聞いてみました。以下のようなことだそうです。

「アドヴァイタでは、意識しか存在せず、従って個人も物も存在せず、師も生徒も教えも道も悟りも存在しないとされています。でも、身体精神機構のようなものは存在しているように見える、とも言います。ダイレクトパスでは何も例外とはしません。気づき以外には一切何もありません。何も存在しないのであれば、何について話しても、何を扱っても自由だということになりますから、それが教えであれ何であれ、どのように使っても良いはずですよね、という意味で言いました」

と饒舌な感じで詳しく教えてもらいました (三分の一くらいに端折りました)。

興味があったのでこんな質問もしてみました。

「真実を発見する上で、師の存在は助けになるのでしょうか?または必要でしょうか?言葉や方法の提供という意味ではなく、物理的な実在のことです」

グレッグからの答えは今度は簡潔で、

「私の観察したところによれば、問いを抱いている人にとっては、答えはYesです」

というものでした。この答えの簡潔さが多くのことを語っているように感じました。

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ダイレクトパス グレッグ・グッドのインタビュー」への8件のフィードバック

  1. こんにちは。ヒロさん。

    いつも楽しみにチェックさせていただいています。
    たくさんの情報をありがとうございます。

    自分が実際どれだけ理解できてるかはさておき、グレッグ・グッドさんの話はなんだか読んでて痛快に感じていいなと思います。

    なんだか建設現場で話を聞いているような印象すら受けます。

    そう、現実性、ということがアドバイタ的な?他者は存在しないという超現実と、でも存在するともいえるんだけどね、みたいなとりあえずの現実を、どちらも等しく尊重して包括してるような謙虚さと足に地の着いた感じを受けました。

    そしてそれらが矛盾しないキャパがあるんだけどぶれないみたいなとこがいいなと思いました。

    ヨガヴァシシタというのははじめて聞いたので、日本語で検索してみましたがここのページだけ出てきました。

    ヴィシシタアドヴァイタというのもあるんですね。

    上記の2つはともに同じ古典的な聖者ヴァシシタのことなんでしょうか。

    『何も存在しないのであれば、何について話しても、何を扱っても自由だということになりますから、それが教えであれ何であれ、どのように使っても良いはずですよね』

    という彼の答えからは、裏返って、なんとなくアドヴァイタの陥りやすい自縛性の存在を感じました。

    微妙な世界ですねぇ。

    へんなこと書いてしまってたらごめんなさい。(^^;)
    (↑この洗練されたサイトで顔文字を使っていいのだろうかとちょっとドキドキしながら使ってみました。)

    ヒロさんを通して居ながらにしていろんなミーティングに出れる感じで面白いです。

    では。

  2. コメントどうもありがとうございます。変なことなんてとんでもないです。顔文字は僕も気楽に使えるといいのですが、どうも恥ずかしくて自分ではダメです(笑)

    建設現場というのは面白いですね。ニューヨークという場で、存在するのは意識のみである、などという探求を完了させてしまい、さらにサットサンではなく、生の個人相手のカウンセリングやセッションを中心に活動しているというところから、そういう包みこむような強さが生まれているのかなと感じます。メールの文面からも、ひたすら明るさとオープンさが伝わってきます。

    ヴァシシタとかヴィシシタ云々というのは僕もまったく分かりません。確かに日本語の情報はほとんどないですね。

    微妙な世界というのは、本当にそうだと思います。概念で終わってしまえば、相当たちの悪い観念になるのは間違いないと感じます。

  3. ヒロさん こんにちは
    なんかここのサイトはアドヴァイタの情報で、日本の最先端を行っていますね。
    いままでまったく知らなかったけれども、貴重な情報の数々が紹介されており、毎日見るのが楽しみです。
    ダイレクトパスなるものもここで初めて知りました。
    スパイラさんや、グッドさんが言われていることのルーツは、シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノンさんと言う方のようですね。
    この方の話も是非いつか訳してください!!

  4. こんにちは。コメントどうもありがとうございます。

    非二元はインド等で古くから言われていることで、時間を超えたものを示しているので、そもそも先端とかいうことはないとは思いますが、欧米のアドヴァイタという現代風のパッケージングに興味があるので、ついつい追いかけてしまいます。

    アートマンダについては、その教えの注釈本に取り組もうとしたのですが、あまりに難解で断念しました。なので、グレッグ・グッドやルパート・スパイラによる「現代語」による説明はとてもありがたいと感じています。

  5. >アートマンダについては、その教えの注釈本に取り組もうとしたのですが、あまりに難解で断念しました。

    !! 残念です・・・
    そんなに難解なのですか・・・

  6. ダイレクトパスが、その特定の方からの流れだとは知りませんでした。
    なるほど!

    私はラマナ・マハルシが好きで(気付いたらそうなっていたのですけども)、いろいろな方の表現に触れて、自分で意識できていなかった部分などを刺激されています。

    こちらのサイトのおかげでアドヴァイタファンが増えそうですね。

  7. いろいろな表現にふれる必要は本来ないのかなと思いつつも、どうしてもいろいろ気になっています。

    アドヴァイタファンというのは矛盾をはらんでいるようで、面白い表現ですね。

    僕は山尾三省さんがずっと好きだったので、その流れで三省さんの訳したラマナの本をだいぶ前に読みました。が、当時は何を言っているのかまったく一つも理解できませんでした(ずいぶんぶっきらぼうな人だな。いくら南インドでも褌だけだと寒くないのかな、くらいの認識です)。今でも準備ができているとは言いがたいところがありますが、全然準備できていないというのはそういうことなんだな、とやっと最近になって分かりました。

  8. 私も初めてラマナを読んだ時は、全く意味がわからなくて、字面だけを追ったのを覚えています。。。ふんどしのインパクトだけが残っていました。
    去年、がらがらと「世界」が崩れるような体験が何度も起こり、気付いたらラマナの言葉が支えになっていました。

    いろいろな表現に触れる必要はないのかなと、私も思いつつ、想念が起こるがままにさせています。今はそういう時期なのかなーと。

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