つかみどころのなさ ロジャー・リンデンのミーティング

 
今日はロジャー・リンデンのミーティングに行きました。先月(レポート)に続いて二回目です。15人ほどが集まっていて、ルパート・スパイラやジェフ・フォスターのミーティングで見かけた人たちもいました。

ロジャーの自宅に向かう道を歩きながら、疲れているのを感じていました。少し風邪気味ということもありますが、自分はどこにもたどり着かないという徒労感がありました。ロンドンにまで来て、住宅地のこんな暗い夜道で何をしているんだろう、と。

ともかくミーティングは始まりましたが、参加者の一人の発言によって、最初に感じていた疲れはひどくなりました。

彼はインド系のカルト宗教か何かにはまっているのか、観念的なことや妙なヒンズー教のそれっぽい用語を言い続けながら、自分の信念をとうとうと開陳していました。なぜ非二元のミーティングに超二元的な考え(「悟れば超人になれる」等)を持つ彼のような人が参加しているのか、理解に苦しみました。

こういう人は一昨日のジェフ・フォスターのミーティングにも実はいて、彼女はニューエイジ的異次元系とでも言うべき観念を、ときおり感情的になりながら、ジェフに一生懸命ぶつけていました。

ジェフの場合は、SAND2010でもそうだったのですが、軽く冗談めいた対応をしたり、あまりしつこいと強制的に質問者を他の人に変えるということをするのですが、彼女は他の人の発言中にまた口をはさんだりいていました。

今日の彼もそれと同じで、他の人の対話中に遮ったりしていて、僕も内心「そんなに自分が話したいなら、自分のミーティングでも開けばいいのに」と思いつつ、ロジャーがどのように反応するのかなと気にしていました。

ロジャーはさすがに大人で、強制切断のようなことはせず、「それは違うと言い切ることはできないし、そもそも私が答えることができるような経験の話をしておらず、話がかみ合っていないように思う」という感じでやんわりと対応していました。

が、面白いと思うのは、こういう人たちがともかくミーティングに現れるということです。

ジェフやロジャーからすれば、起こることは起こることであり、それに対して感情も生じるのでしょうが、そうしたことが「自分」に関連づけられないから問題ではないということかもしれません。傍から見ていると、こういう困った人たち(僕のジャッジですが)が自宅に押しかけてくるのであれば、先生というのも大変だなあと思うのですが、このあたりの感覚は理解を超えています。

今日は、それ以外は非二元の基本の説明のバリエーションという感じでした。因果関係は無いということが何度か強調されていたという印象です。はっとするようなこともなく、ただ疲れと戸惑いの中でぼんやりと聞いていました。

帰りに、ロジャーから彼のウェブサイトにある文章 (The Elusive Obvious) の翻訳紹介の許可をもらいました。以下の通りです。

The Elusive Obvious (Roger Linden)

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とらえどころのない明白なもの

解放とは、生の経験というものに個人的な自己が含まれていないという、明らかでありながら想像がつかない現実を認識することです。すべての経験の中心にあるとみなされていたもの、つまりそれを経験している私、というものがそこにいないはずがないと考えるかもしれませんが、それは実際に起こっているのとは違うということです。あなたがこれらの言葉を読むという経験をしているわけではなく、実際に起こっているのは、読んでいるあなたを経験しているということです。自己の感覚は経験の一部であり、起こっていることの一部です。

思考、感情、身体の感覚、特に筋肉の収縮が、身体内に位置する個人的な自己が存在するという錯覚を支えています。私は頭の中にいて外を見ていて、この視点から人生を経験しているのだという錯覚です。これは見かけの上での二元性の経験です。

自分に気づいていて、生きて肉体をもっていることを自覚し、選択をして行動を起こす「私」は存在しません。あるのは、意識、存在、気づき、非個人的な自己だけです。それは、時を超越し、静かで、透き通った広大さです。自分の経験に気づき意識しているのは私ではありません。それは、自分という感覚と自分の経験がその中に現れている意識です。私や、私が知覚するものは、人生でなじんでいる経験です。あるいはそのように見えます。しかし、自己は存在せず、存在するのは自己、意識、そのなかで私という感覚や私の経験が現れているものです。

探求は、不完全さや何かが不足しているという感覚、そしてやすらぎくつろぎたいという私たちの切望によって衝き動かされています。意味や目的の感覚を見つけることや、瞑想のような実践は、確かに役立つように見えます。ですが、多くの恩恵があるにもかかわらず、そうしたことは完全な満足をもたらしません。なぜかと言えば、それを経験している私が存在しているという説得力のある仮定は、そうしたことをいくら行っても、変えることも取り除くこともできないからです。

解放とは、分離した自己があるという感覚が完全に永遠に消滅することです。それは知的な理解でもなければ、現実の性質についての直感的な洞察でもありません。それは真空包装が破れること、あるいは泡がはじけることに似ています。解放とは探求の終わりであり、あるのは全体性だけだという理解です。残るのは、静かでゆったりした気づき、意識、そのなかで驚くべき明快な生の直接性が現れているものです。そして経験は優しく、穏やかな喜びとなります。それは愛です。

(翻訳は以上)

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つかみどころのなさ ロジャー・リンデンのミーティング」への2件のフィードバック

  1. ロジャー・リンデンと言う人を特に意識していなかったのですが、今回の記事が気になって先月のレポートも読み直しました。

    > 特定の視点からのストーリーにすぎない」と何度も繰り返していました。

    とあるように、一つの視点を断言しないで、常に他の可能性についての含みを持たせるひとなのですね。

    以前、読んだ時には気づいていなかったけれど、個人的には気になる人の仲間入りです(笑)

  2. 今回ジェフ・フォスターのミーティングのときに他の参加者の人と少し話した際、二日後にロジャー・リンデンのミーティングに行くということを伝えたのですが、彼女の反応が面白かったです。

    「あー、あのミーティングで参加者があわわわわ(と両手をひろげて溺れるようなジェスチャー)ってなる人のことね」

    ということでした。どんな意味で言ったのか確かめませんでしたが、そう言われてみれば、前回は確かに行き帰りの道で景色が異常にヌメヌメしているというか、知覚にちょっと異常な感じがありました。今回はミーティングの最初に数分続いた沈黙の間に、どこかに吸い込まれるような、自分の輪郭があいまいになるような感覚があった以外は、特に変わったこともありませんでした。

    そういう意味では、この世界(笑)は語られることや書かれたものだけでは本当に伝わらないんだなというのは感じます。(いずれにしても分からないことには変わりがありませんが)

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