非二元について ルパート・スパイラ

 
ルパート・スパイラ(Rupert Spira)のウェブサイトに、About Non-Duality(非二元について)という文章があります。

これは概論的なもので、彼の教えの基本が書かれていて、その中に出てくる意識や気づきといった用語の説明が別ページでなされるというかたちをとっています。しばらくQ&Aを休んで、この部分を翻訳紹介したいと思います。

インタビューやQ&Aとはまた少し違った味わいがあるような気がします。

まずは、メインの部分であるThe Perennial Understandingです。

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永続する理解

キリスト教、ヒンズー教、仏教、禅、スーフィズム、カシミール・シャイヴィズムやユダヤ教などの偉大なスピリチュアルの教えのすべてが本質的に発見したことは、経験が、認識する主語である「私」として知られる存在と、認識される対象である世界や他者とに分裂してはいないということです。

見かけの上で分離した存在や、見かけの上で分離し独立している世界や他者は、経験の現実に重ね合わされた概念なのだと理解されています。

この実在、マインドや身体や世界のすべての経験にある本質的な構成要素を探すと、私たちは意識あるいは気づき、私たちが自身の存在であるものだと直接よく知っている認識する実在を見つけ、それはただ「私は在る」として経験されます。

この理解、非二元あるいはアドヴァイタと呼ばれることもあるものですが、これはこうしたすべての教えの核心部にあるものであり、これを直接的に表現することはできないものの、教師、賢者、神秘主義者や詩人は、彼らの文化の言語を用いてこの実在を指し示しています。

すべての経験に組み込まれているこの非概念的または経験的な実在あるいは認識は、実のところは常にあるものですが、ほとんどの場合は信念によって覆い隠されています。第一の信念、他のすべての信念がそれに基づいているその信念は、意識あるいは気づきが身体の中に、そして/あるいは身体として位置しているというものです。

この根本的な誤りによって、私たちは自身を、身体の中に身体としてある分離した存在へと縮小させます。それは、意識がちっぽけで弱い存在のなかに収縮するということであり、その結果、私たちの真の性質、意識に固有である平安と幸福は覆い隠され、そのために失われたようにみえます。これが幸福の探求のはじまりです。

意識は、私たちが「私」であると認識しそう感じている分離した存在のなかに収縮するように見え、世界(そしてすべての他者)はそれと同時に外側、分離したもの、他のもの、「自分ではないもの」になるように見えます。

このような経験の分裂は実際には決して起こってはいませんが、これは経験の一体性を二つの別々のものに分けるようにみせる強力な錯覚です。この見かけ上の錯覚によって苦しみが生まれます。

大抵の場合、この根本的な誤りに目を向けさせるには、友人あるいは教師が必要とされ、彼または彼女とのつながり、そして会話、瞑想、熟考、沈黙、自己探求、調査、探究、静寂のなかや普通の日常の行動で単に時間を共にすごすことによって存在を共有することを通して、分離という結び目からなる信念と感覚の密度の高い編み物が分解されます。

このことはときに覚醒と呼ばれます。それは、実在意識気づきが、すべてのものの実在としての自己の存在に目覚めることです。

私の場合、経験の性質のこの明確な理解へ案内してくれたのは、友人で先生のフランシス・ルシールでした。ですが、この奥深いところでの出会いの下地をつくってくれた、その大部分がアドヴァイタあるいは非二元の教えを伝えている、多くの他の人たちもいました。ラマナ・マハルシ、ロバート・アダムス、シュリ・ニサルガダッタ・マハラジ、ジャン・クライン、アートマナンダ・クリシュナメノン、ウェイ・ウー・ウェイ、ルーミー、ハーフィズ、マイスター・エックハルト、イレーネ・トゥイーディ、ダ・フリー・ジョン、クリシュナムルティ、シャンタナンダ・サワスワティ、フランシス・ロールズ、ウスペンスキーといった人たちです。

フランシス・ルシールは私にダイレクトパス(直接の道)のことを紹介してくれましたが、これは実際は道というわけではありません。これは、意識が観照者であると同時にすべての経験の実体であり、マインド、身体、世界に見かけ上の存在を与えている唯一の実在であるということをはっきりと理解することです。

このことを最初に本当に一瞥することは悟りや覚醒として知られることもありますが、ほとんどすべての場合に、マインドと身体の習慣的な傾向が再び現れ、この認識を再び見かけの上で覆い隠します。

それに続いてこの理解に確立することは、自己認識として知られることもありますが、それは目標に向かってのプロセスではありません。それは身体、マインド、世界がこの理解によって再編成されることであり、この理解を目指して行われることではありません。悟りは瞬時のものです。自己認識には時間がかかります。

悟りとは、身体の内側に位置して、世界や、自己の外側にある自己とは別のすべての他のものを経験している分離した存在というものは存在していないということを深く理解することであると言うことができます。

自己認識とは、マインド、身体、世界が、それらが由来し、そこから一瞬たりとも実際は離れたことがないこの認識する実在に再吸収されることである、と言うことができます。

それは、思考、感覚、知覚という形をとっているのはこの認識する実在であって、その結果としてそれがマインド、身体、世界になるように見えるのであり、実際にはそれが既に永遠にそうであるもの以外の何かになることは決してないのだという私たちの理解に沿った形で、マインド、身体、世界が再編成されることです。

存在するのは、刻一刻と変わる私たちの経験の全体として現れている実在だけなのです。

(「永続する理解」は以上)

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非二元について ルパート・スパイラ」への4件のフィードバック

  1. こんにちは!はじめまして。いつも、自分では読めない記事を読ませていただき、とてもありがたく思っています。ありがとうございます。この記事にあります、「資料」からpdfをダウンロードしたいのですが、そのページがわかりませんで。。。もし、よろしければリンク先を改めて教えていただくけますでしょうか。どうぞよろしくお願いいたします。

  2. はじめまして、こんにちは。

    資料のページは一時的になくなっていました。失礼しました。https://resonanz360.com/files/ です。

  3. ありがとうございます!!確認できました。読ませていただきます。
    ありがとうございました!

  4. >すべての経験に組み込まれているこの非概念的または経験的な実在あるいは認識は、実のところは常にあるものですが、ほとんどの場合は信念によって覆い隠されています。第一の信念、他のすべての信念がそれに基づいているその信念は、意識あるいは気づきが身体の中に、そして/あるいは身体として位置しているというものです。

     たまたま超越的な体験をしたからといって、なぜそれが真理であって、日常的な体験にもとづく主体と客体の分裂の方は真理でない、となるのでしょうか。

     たとえば、ジル・ボルト・テイラーは脳卒中からアドヴァイタ体験をしましたが、それは脳内の配線の問題であることを示唆しています。つまり異常知覚であって、真理というにはほど遠いかもしれません。
     

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