先週、キャサリン・ノイス(Katherine Noyce)というイギリス人の普通の女性のことを紹介しました(「あくまでも普通な覚醒者」)。
記事を書いた後、Everyday Enlightenmentのキャサリンの部分を再読しました。改めて面白いと感じたので、そのキャサリンの部分の概要を書いてみたいと思います(すべて彼女のセリフの形式です)。以下、概要です。
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探求は二十数年続いた。ウパニシャッドやヴェーダの系統の非二元の教えを受けた。瞑想は得意ではなかった。長い間教えに没頭したが、ついにうんざりした。その頃夢を見て、その中で当時の先生から「探求は二の次にして、他のことをしなさい」と言われた。グループのリーダーをやめ、先生から離れた。
以前何度か自分がいないという経験をした。何時間か続くこともあった。
ある時、夫の提案でトニー・パーソンズのミーティングに行った。彼の言っていることは図星だと感じ、何度もミーティングに出た。
二年ほど前の8月にトニーのミーティングに行った時、ミーティングの終わりに立ち上がった瞬間、すべてが変わっていた。外に出たが、30分ほど眩しい光が続き、何かが壊れたか、何かが死んだという感覚があった。そのことは説明することができない。
それは状態ではなかった。キャサリンと呼ばれる身体とマインドはあって、普通にすることをしていたが、あったのはすべてを包み込む「何もないこと」だった。それは状態ではなかった。記憶では思い出すことができないことを記憶から引き出そうとしているような感じがする。
すべてが変わったが、すべてが全くそのままだった。
もし覚醒したらすぐに飛び出て人に教えるだろうと思っていた。話すのが好きだし、うまく説明できると思っていたから。でも、それが起こった後(起こったように見えることが起こった後)、それに名前をつけることもできないでいる。言えることは、「何かが永遠に消えて、ずっとあったものはまだここにあって、すべては変わったが、すべてが同じ。そしてこの瞬間・・・」、その後は沈黙だけ。
すべてのものとの輝く一体感のようなものは感じない。これを読む人を失望させるだろうが。感覚はいまでも物事を分離したものとしてとらえている。が、感覚ではない気づきがある。感覚ではなく、すべてに浸透している何かがあり、それはずっとある。
私は「私はそれだ。I am That」と25年もサンスクリット語とヒンディー語で唱え続けたが、いま考えるとそれは違うことを指していた。でも、実際には気づいていなかっただけで、それは子どもの時からずっとあった。ただ、自分がキャサリンであると思っている存在にはそれを理解することはできない。
騒音が嫌いで、列に並ぶのが好きでなく、犬が好きなキャサリンということは続いているが、それと同一化することがなくなった。
以前は自然が豊かなところに行くと、自分と自然とのスピリチュアルなつながりを感じたが、それはなくなった。自然の中では気分はいいが、それは特別な体験ではなくなり、自然もティースプーンも同じようにスピリチュアル。今の私は全くスピリチュアルではない。くだらないテレビ番組を本当に楽しんでいるし、よりスピリチュアルな人になろうという気持ちは消えた。
これは私が求めていたものであり、それと同時に求めていたものとは完全に違うものだ。瞑想もマントラも禁欲も感情のコントロールも、それをすることでより幸せにはなるかもしれないが、探求しているものとは関係ない。
8月のあの時に見た光は全く無意味。トニー・パーソンズのミーティングに行ったことがこの理解につながったように見えるだろうが、時間が存在しない以上、そういう因果関係もない。
個人としての自分が自分である本質を失うことに伴う恐怖は一般的だと思う。キャサリン性がなくなることは怖かった。でも、分かると、もっと自分になる。人を喜ばせようと走りまわることはなくなった。
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ほとんどの覚醒のケースで、明らかに長い探求か熱狂的な探求があり、ある種のあきらめがそれに続き、それから何らかのきっかけが起こって覚醒するというパターンが繰り返されているように見えます。そしてまた共通しているのが、覚醒に到るまでの道筋は何ひとつ関係なかったという理解に達するということです。グルは必要だと言っている人にしても、グルとの出会いと覚醒には因果関係があるとは言いません。
このパラドックスがパラドックスではない地平というのがあるというのはどうも想像がつきません。マインドに想像がついた時点でそれは違うということなのでしょう。
キャサリン・ノイスはとても興味があったのですが、自分の語学力ではyoutubeを見てもどんな感じのことが話されているかわかりませんでした。
なので、何れ聞き取れるようになるまで待ってみようと思っていました。
今回アップされた話はyoutubeとは違う内容のようですが、とても興味深く読ませていただきました。
コメントありがとうございます。
今回この概要を書くときに、インタビュー動画の音声を聞きながら同時に本をみて書いていたのですが、内容的にはかなり近いものだなと思いました。
ですが、誰の場合もそうですが話すときの表情や間などにいろいろなことが表現されているので、やはり文字は動画や音声にはかなわないですね。と言いつつ、文字情報でも面白いことには変わりないので、文字を読み続けるとは思います。
>このパラドックスがパラドックスではない地平というのがあるというのはどうも想像がつきません。マインドに想像がついた時点でそれは違うということなのでしょう。
パラドックスの前提には「因果論」「ロジック」があり、それは「認識・解釈」つまりは思考、概念ですね。「事実」は、感覚や思考の「内容性」の次元ではなく、それらを含めた現象全体の「運動性」の次元、と表現できるかもです。
はじめまして!
大変興味深く読ませていただきました。
僕が学んでいるマスターの体験と彼女の体験は、とても似ています。
映像から感じる雰囲気にも同じものがあります。
自我が死んだ方に特有の雰囲気なんでしょうね。
僕のマスターも、この方と同じように、「探求が終わった」「探求する者がいない」ということをもって一件落着となったようです。
ただ、僕はこれですべてが完了したわけではない、と思っています。
パパジは「自由の中でさえ、この自由を超えていこうとする衝動が起こるのだ」と言います。
「それはあまりにも神聖なことだ」とも言います。
非顕現にゆだねっぱなしになり、自我からではない自由への衝動が完結する世界とは、いかなるものか?
もはや個人の努力を超えていますが、ここに僕は魅了されてしまうのです。
こうしたことがハッキリ分かるマスターがいればなあ、と思うんですが、何か知っていることはありませんか?
barraganさん、初めまして、こんにちは。コメントありがとうございます。
雰囲気が似ているというのは面白いですね。
「その先」というものがあるはずだという感覚とか、それを体現している人がいるかどうかということについては、僕自身は本当に分からないところです。そもそも何に惹かれて何をしているのかも分かっていないので、どうにもなりません。ただ右往左往するのみです(笑)