イラクは存在しない ウンマニ

 
ウンマニ(Unmani)については、先月彼女のミーティングに行ったときに記事を書きました。

ウンマニのミーティング

ウンマニにはウェブサイトがあるのですが、そこに過去のミーティングを文字で起こしたものが掲載されています。

Unmaniのウェブサイト Not-Knowing
Unmaniのミーティングの記録

彼女の許可をもらって翻訳しましたので、紹介します。Q.はさまざまな質問者の質問、Aはすべてウンマニの言葉です。

なお、大文字で始まるLifeという言葉を「いのち」と訳しましたが、これは一般的に言われるところの大文字で始まるConsciousness(意識)、Awareness(気づき)、Presence(実在)、That(それ)と同じで、いわゆる二元性を超えたものを指し示す言葉だと思います。Lifeという表現はジェフ・フォスター(Jeff Foster)も使っているものです。

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2007年6月 ロンドンでのミーティング

Q. これは質問ではありません。自分が誰であるかを定義しようとすることに関してあなたが話したことを受けてのものです。私は、私には本当に分からないという地点に達しました。誰が話しているのか分かりません。すごく奇妙なことです。最初は恐ろしかったです。本当に怖かったのです。落ち込むことになったと思います。本を読み始めたとき、友人がくれたあなたの本『I am Life Itself』なのですが、その本の何かとすぐに共鳴し、しばらくしてこの内容にとても惹かれました。でもまたしばらくたったとき、とてもとても怖くなりはじめました。本当にひどく怖かったです。私は夫に「私は存在しているの?」と尋ねました。そして、もうその段階は過ぎました、というのはいくらか良いこともあったからです。そしてたった今は、本当に分からない、これは何なの、という感じです。私には分かりません。

A. 「私には分からない」というのは、私にとってもいつも共鳴するものです。だからこそ、こういうミーティングをmeetings in not-knowing(知らないなかでのミーティング)と呼ぶのが私は好きなんです。そう。なぜなら、思考の中には答えがないからです。

* * * * *

Q. あなたはなぜイラクに対して宣戦布告をしたのですか?

A. 私はしていませんよ。

Q. ええと、あなたはすべては自分だと言いましたよね。そうすると、あなたが話しているとき、それは私が話しているということなのですか?

A. イラク人はどこにいますか?

Q. まっすぐ行ったあっちの方のイラクにいます。

A. イラク人はたった今想像の中にいます。あなたはイラクのことを想像していますか?

Q. ということは、あなたが言っているのは、言ってみれば自分の目の前にあるものだけが真実だということですか?

A. 私が言っているのは、私はイラクを知らないということです。あなたはどうですか?

Q. どういう意味ですか? 私がイラクに行ったことがあるとか、そういうことですか?

A. たった今言っているのは、あなたはイラクを知っていますか?ということです。

Q. 私が知っているか?ええと、イラクについては知っていますし、そこで何が起こっているかも知っています。

A. そう、あなたはそれについて聞いたことがあります。読んだことがあるのかもしれません。そして今そのことを思い出しています。イラクの物語の記憶があります。イラクに行ったことはないですね? イラクに行ったことがありますか?

Q. いいえ。

A. では、あなたはイラクについて新聞で読んだか、あるいは・・

Q. そうです。

A. はい。読んだことの記憶が今起こっています。

Q. すみません、あなたの言っていることは訳の分からないことに聞こえます。それはまるで・・・

A. オーケイ。それでいいです。訳がわからないということが今起こっています。それは思考にとって苛立たしいことです。このことは思考では理解できません。思考は空白になるか、そうでなければこのことを訳の分からないこととして受け取ります。なぜなら、これは思考に対する脅威だからです。

Q. いや、でもあなたは何かを言っていて、私はあなたの言うことを理解しようとしています。

A. それは分かります。ええ。だから私は言っているんです、あなたには理解することができないと。それでイライラしますし、思考にとっては不可能なことです。イラクはありません。あるのはこの部屋だけです。この音。この感覚。

Q. ということは、言ってみれば自分の目の前にあるもの、あるいは知覚的に自分が気づいているものだけが起こっていることであって、それ以外のなにものでもないということですか。

A. そういう風に言うこともできるでしょう、はい。あなたは何かを知っていますか・・・あなたはここに上がってくる前の下の階を知っていますか?

Q. ここに上がってきた記憶があります。

A. あなたは知っていますか・・・つまり、ただの記憶よりもっと他のものがたった今ありますか?それは実際にたった今存在していますか?

Q. そうですねえ、「はい」と言おうとしています。でも、それは記憶に過ぎないとあなたは言うでしょうね。たった今、それはただの記憶です。

A. ええ。つまり、あるのは絶対的な実在への指し示しです。たった今だけです。それが本当に存在するのかどうかというのは意味のないことです。何時間も哲学的にこのことについて議論できるでしょう。私が話しているのはそういうことではありません。実在への指し示しがあります。そしてこれは、あなたは誰なのかということです。ほんとうに絶対的な実在です。「たった今」という言葉さえ超えたものです。

* * * * *

Q. この理解に向かってのプロセスはありますか? 最終的に理解に向かっていくことができますか・・・よりはっきりとした理解、よりよい知覚、あることについてのより素晴らしい感覚、自分の生活における活動からの解放、自分が誰であるかということと知覚との間にある混乱からの解放、といったことに向けて進むためにできることはあるでしょうか?

A. ということは、たった今に向けたプロセスがあるかどうかということを知りたいわけですか?

Q. はい、ある程度の明晰さ、あるいは経験のより深い理解を得るためにです。

A. たった今、これが完全な明晰さです。このミーティングで提示しているのはスピリチュアルな道の終わりです。私たちがスピリチュアルな道における段階について話しているのであれば、私は「はい」と答えることもできますし、瞑想をするのもいいでしょうし、私が推奨できるようなものがもしあれば、そういうことをしてもいいでしょう。そして、それはより深い理解、より明晰な状態をあなたにもたらすでしょうね。そういうことは別の種類のミーティングで話されることです。このミーティングは、それがどんな種類のものであったとしても、スピリチュアルな探求の終焉です。これがいちばん近いものです。これが終わりなのです。あるのはただこの明晰さだけです。あなたというものは始めから完全に明晰です。より明晰になるためにする必要があることは何もありません。どんなプロセスも要りません。

Q. それは多分理解していると思います。ただ、仏教の瞑想やヨガ教室や他のいろいろな手法で習ったような、覚醒の様々な段階を経る必要があるという教えについて再確認したいということなんです・・・単に、そういう他の考え方について確認できるといいなと・・・というのは、私はそういう考え方をしているというか・・・見かけの上ではそういう考えをもっているというか・・・あなたの言っていることは分かっていると思いますし、そうだと確かに感じます。でも、そういう他の考え方についての私の見方とか理解が間違っているといけないと思って、どうなのか確認したいんです。私には分からないので。

A. ええ、ある意味では、それは自分を信頼することに関係しています。自分は本当に何を知っているのかということを確認したいと考えるのは当たり前のことです。あなたはいのちそのものなのだという認識のことを話しています。で、思考は「ええ、でも・・」「これを実践すべきなんじゃないだろうか?」あるいは「プロセスについてはどうなんだろう?」と言うでしょう。思考はこのことを絶対に理解できません。あなたはこのことをすでに理解しています。あなたは信頼そのものです。する必要があることは何もありません。あなたはいのちそのものです。たった今です。何が起ころうと関係ありません。このキャラクターが何をしているように見えても関係ありません。このキャラクターがどんなに混乱しているように見えても関係ありません。これは見かけとして思考のなかにあるにすぎません。いのちは、どんなことが起こるとしても、起こることによって傷つけられることは絶対にありません。

* * * * *

Q. そして、思考はすごく巧妙です。これが存在することすべてで、何もする必要はなく、プロセスもないということをあなたが言ったために、「できることは何もない」とか「自分には何でもできる」と私は考え始めます。そして、それがまた新たな思考にすぎないことに気づくんです。

A. ええ、それはある意味では新しい実践になってしまうかもしれません ― 行為しないという行為をする、というような ― 。

Q. それで、イライラとか他のことが起こります。

A. はい、ものすごく苛立たしいですよね、分かります。思考はそれを理解しようと努力し、努力し、また努力します。思考は本当にすごく役立とうとしています。思考はただ全力をつくし、役立とうとしています。それだけです。思考は敵ではありません。思考はあなたに悟りをもたらそうとしているだけです!それだけです。

Q. ええ、思考やマインドを一種の敵のように人々が話すのを何度も何度も聞きました。はっきりと敵だと言っていたわけではないですが、伝えられていたことはそういうことでした。マインドは絶対に到達できない・・・それでマインドは本当に敵なのだと考え始めます。

A. ええ、そうです。でも実際には思考はただ考えているだけです。それが思考の性質です。他のありように変わる必要はありません。思考が止まる必要もありません。静まるかもしれません。加速するかもしれません。いいですか、思考は変わりますし、現れては消えます。でも、あなたであるものは、どんな思考にも絶対に傷つけられることはありません。

* * * * *

Q. それを認識するのは何ですか?

A. 現象という遊戯のなかで、あたかも分離した「自分」が自分は分離していないのだと認識するかのように見えます。ですから、認識する主体は、分離した誰かというこの見かけであり、それは見かけにすぎません。あなたが誰であるかというと、それは常にいのちそのものです。分離することはありません。ただ、あたかも分離した誰かが自分は分離していないのだと認識するかのような遊戯があります。

Q. では、それは転換なんですか?

A. いえ、転換ということではありません。というのは、あなたであるものは一度も分離したことはないからです。

Q. 最初から明白だということですか?

A. はい。もしくは、言ってみれば、この現象という遊戯の中で、自分は分離していないということが明白になるということです。私は分離してあらわれているいのちそのものです。私が自分であると考えていたものはただ単に遊戯であり見かけだったということが明らかになるということです。このことを認識する、いのちそのものから分離した他の誰かというのは存在しません。いのちは、あたかもそれ自身を認識する分離した誰かがいるかのように遊んでいるようです。それは突飛なパラドックスであり、突飛な遊戯です。

Q. それは認識され、所有され、また認識され、そしてまた所有されますが、このことすべては最初から私であるものの中で起こっています。

A. そうです。

*****

Q. 思考の物語や感情や起こっていることに完全に巻き込まれるときがあります。そうなると、私が在るという気づきに気がついていない状態になります。

A. そういう気づきを抱えながら歩きまわる必要はありません。そのことを完全に忘れて、起こっていることをそれが何であれ経験していいんです。結局これは遊戯です。それが、これが経験ではない理由です。もしこれが言わばスピリチュアルな道における段階のようなものであれば、経験のことについて、それをある意味でしがみつくべきものとして話すこともできるでしょう。でも、ここで私たちが話しているのは、出来事や経験という形でこの遊戯のなかに現れることとは何も関係がないことです。そういうのはすべて現れては消えていくことだからです。すべての経験は過ぎていきます。でも、過ぎていかないもの、あるいは経験されないものが、あなたであるものです。

Q. でも私にそのことが分かることはありません。

A. そう、それは分かりません。唯一の理解とは、分からないということです。

Q. では、あなたが分離した人としてその理解を保有して「オーケイ。これがそれだ」「やっと分かったぞ」というように分かることはないということですか?

A. ええ。まったくその通りです。

* * * * *

Q. それは、一歩離れたところから見ながら、何であろうと起こっていることにより気づいているというプロセスのようなものですか?

A. いいえ、これは終わりです。あなたは少し離れるということもできなければ、より気づいているということもできません。あなたがより気づいているようになったり、あるいは監視者や観照者になったりすることを教えるスピリチュアルの実践や瞑想はたくさんあります。そして、そういうものはある点では心をとても穏やかにしたり役に立ったりすることもあります。でも、実のところはこの気づきや観照者は、この遊戯のなかのまた別の、もしかするともっと微妙であるかもしれませんが、一部です。といっても、それが遊戯の一部であることには変わりありません。そして、私がここで話している気づきは、あなたであるものです。それは、何らかの形で練習できるような気づきでも観照者でもありません。より気づいていようとあなたが練習するとき、あなたであるものはそのことにも気づいています。

* * * * *

Q. 分かりました。マインドを落ち着かせていくにつれて、より近いところに辿りつくという感じ方があります。そして昨日や明日について思考がランダムに生じることもなくなります。あるいは抽象的な思考が・・落ち着いていき、声が・・・・思考や反対する思考は止まり、静かなままになり・・・そこで留まっていると、すべてが静かであるために、自分が何であるのかということについてのある種の認識にどうやら近づいてきているという感覚が起こります。でも、それは・・・あなたによるとそれは・・・

A. それは経験です。

Q. 私が何であるかというと、それはあらゆるものごとのタペストリーです。

A. ええ。落ち着いて静かで思考が減るという経験は、あなたであるもののなかに現れている経験です。あなたであるものを経験することはできません。あなたであるものは、ただあります。理解されることはありません。経験されることはありません。思考によって理解されることはありません。

Q. そうかもしれないという感じがしていました! 私が実際に理解できることに関しては限界があるのかもしれないという感じを得ています。

A. はい。理解は、この「物事」の遊戯にとっては素晴らしいものです。見事なものです。でも、それというのはこの遊戯全体に気づいているものなのだと理解することは、思考にとっては不可能なことです。

* * * *

Q. 聞いているのは誰でしょうか?聞いていることは疑いなく起こっています。

A. あなたです。(沈黙)

Q. 私はこういうミーティングでいつも自分の心臓がドキドキすることに気がつきます。それは興奮のようなものです。というのは、私はもしかしたら・・・見つけるのではないかという気がするからです。私の言っていることが分かりますか?ええ、そうです、それを探すゲームのようです。

A. ええ、あなたはそれが大好きです。

Q. はい。

A. そのせいで、それがもう見つかったということをあなたは受け入れないんです。

Q. はい。でも、それはどうでもいいことです。そうですよね?!

A. ええ、究極的にはそれはどうでもいいことです。なぜなら、真にあなたであるものは、どんな探求によっても傷つけられないからです。でも、逆説的ですがそれはどうでもよくはありません。これがそれです。これがあなたが探し続けていたものです。

Q. たとえ私がそれを・・・・

A. はい、あなたがそれを決して見つけられないとしてもです。あなたはすでに見つけられています。

* * * * *

Q. ということは、あなたであるものは物事が起こる場所ですか?あなたであるものは・・・あなたであるものは絶対的な実在。この実在のなかで、ものごとが起こり・・・感情が・・・・

A. すべて、どんなものごとも。そうです。

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と訳を書いてみて、「・・・」に込められている意味は伝わるのだろうか、という気がしています。僕自身の経験(経験!)では (一回参加しただけですが)、この沈黙の部分はとても長く、ミーティングの終わりになるに従って逃げ出したくなるような性質を帯びてきていました。そんな雰囲気が少しでも伝わると、とても面白いと思います。

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