あくまでも普通な覚醒者

 
悟りとか覚醒というものに勝手な投影をしてしまいがちなことについては、投影を許さない普通さの恩恵という記事に以前書きました。

が、それでもまだやっぱり何か特別な何かを自分は投影しているんだなあと今日感じました。

それは、キャサリン・ノイス(Catherine Noyce)のこのインタビュー (5つの動画) を見たことによってです。

キャサリン・ノイスは英国人で、病院で看護師をしているそうです。覚醒や不二一元論について先生として人前で話したことはなく、先月読んでイギリスに行くきっかけとなった本、Everyday Enlightenmentに出てくる一般人の覚醒者7人のうちの1人です。

見た目も話し方も極めて当たり前な感じのイギリスの普通のユーモアのある中年女性という感じで、見た目が既に余計な投影を許さない雰囲気です。

悟った後も特別に何かが変わったことはないという話の通り、本当にそんな感じを漂わせていて、変わったのは探求が終わったということだけだとあくまでも淡々と語る様子は笑ってしまうほどです。

インタビュアーが繰り返し何か特別な話を引き出そうとしますが、全く何のリップサービスもなく、「私はろくな先生にはなれないわね。言えることといったら This is it だけでしょうから」などと言っていて、楽しい限りです。

ブッダ、キリストから始まって、ラマナ、ラーマクリシュナ、そしてOSHOやニサルガダッタといった強烈な個性と彼らのエピソードによって、更に禅の悟りの奇妙奇天烈な伝説によって、いろいろ変なものを覚醒や悟りという言葉にくっつけるはめになったのだなあと思いますが、それにしてもこの女性の普通さには逆に不思議な説得力があり、とても面白いです。

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あくまでも普通な覚醒者」への4件のフィードバック

  1. >ブッダ、キリストから始まって、ラマナ、ラーマクリシュナ、そしてOSHOやニサルガダッタといった強烈な個性と彼らのエピソードによって、更に禅の悟りの奇妙奇天烈な伝説によって、いろいろ変なものを覚醒や悟りという言葉にくっつけるはめになったのだなあと思いますが、

    うんうん、と頷いてしまいました。
    そもそも「悟り」とか「覚醒」という言葉を立てることで、それに何か特別な実体・状態があると錯覚してしまう。しかし、言葉の機能上、どうしてもそれを立てないと説明ができないから、なのでしょうけれども。

    単純に「私」という錯覚、「思考」「感情」が「私の」ではない、固定的なものではない、という理解。
    これだけを示せばいいような気がしてきます。
    雲の背後には青い大空がもともと広がっているわけですから。雲という錯覚を理解するだけでいい。

    でも錯覚のなかにあるうちは、どうしても何かを得たいわけで「それでどうなるの?」「どう良くなるのか?」となる。それで、モチベートするために「悟り」「覚醒」という方便が必要だったのかなーと。
    「なんも変わんないよ。ただ根源的な苦悩がなくなるだけだよ。」と言ってしまうと、なーんだ劇的に自分が変化するわけではないのかー、となり、関心が消失する人が多かったからとか。。
    妄想ですが^^

  2. 追加ですが。
    時代背景もあったのかなーと思いますね。
    今の時代とは違い、昔は争いも多く、生きることで精一杯だったのでしょうから。そんな中で導くにはそれ相応の報酬という方便、物語が必要だったのかな、と感じます。

  3. 先月ウンマニのミーティングに行ったときに、始まる前に参加者の人同士で世間話をしていたのですが、エゴの餌を一切差し出さないスタイルだと人があまり集まらないからなのか、先生によっては探求者としてのエゴが多少安心して喜ぶような話が徐々に増えていく場合があったという話をしている人がいました。

    ただ、逆に一方では徹底的に原理的なことしか言わない先生のところに集まる人も増えているという現象もあるらしく、その意味では見かけ上の話ではあるのでしょうが、時代の違いとか、それによる方便のスタイルの変化というのはあるのだと思います。

    とりあえず、奇跡現象だけはもう別に要らないよという感じにはなっているのかもしれません。

  4. 欲望のゲームを味わい尽くしてないのに、
    覚醒しようとするから
    迷うんじゃないでしょうか?

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