二つの思考が落ちた話

 
田舎暮らしがしたいという考えと、こどもの教育(自由教育学校の検討)に関する考えについて、昨年10月と11月にそれぞれ書きました。

小聖は山に隠れ、大聖は市井に暮らす
学校教育のこと

どちらも、昨年の特に後半は頭の中の大きな部分を占めていたことです。実際に、どちらについても具体的に計画を立てたり、現場を見学・視察したりもしました。

そうなのですが、昨年の終わりに、どちらについてもすっかり関心が落ちました。

今は、この二つのことについては何も考えておらず、どうしてそんなにこだわっていたのか逆に不思議に思うくらいになっています。

なぜ強い関心が急に落ちたのかということについては、それが落ちるべきときが来たから、というのが正解なのでしょうが、現象の面から言うと、これが直接のきっかけということが確かにありました。

それは、W先生との面談(個人セッション)です。

W先生については、いつかここで書こうと思いながら、これまで書きませんでした。夫婦のことや自分の微妙な内面のことを書くのに似た微妙さがあると感じていたからかもしれません。

W先生という存在を初めて知ったのは、卵の中のKI☆MI(旧卵の中の黄身)というブログに昨年出会ったときでした。

それから、リアルワールドでW先生の勉強会や修道会の楽しそうな様子を読み、これは会ってみたいと強く思いました。

初めて吉祥寺の瞑想会に行ったのが昨年3月で、それから毎月勉強会や瞑想会に参加しています。

面白いと思うのは、参加するようになってから数カ月後に気がついてみると、関心がかなり変わったことです。本棚の中身などはすっかり入れ替わってしまいました。それから、それまで定期的に顔を出していたところから足が遠のく結果にもなりました。(と書くと、変な新興宗教に急にハマった人のようですが、傍からみると確かにそう見えるでしょう)

自分の周辺の現象をマシなものにしたいとか、自分であることが心地良くなりたい、というそれまでのモチベーションが、自分や世界って何だ?という問いに変わってしまったような感じで、それが現在のアドヴァイタに対する強い関心に結びついています。

それで、最初に書いた二つの関心が落ちた話ですが、W先生との個人セッションのときに、自然の中の生活というテーマについて12月初めに相談した時のことです。

話の内容は、具体的にどういうことを求めているかということや、家族持ちとして考えるべき点など、問いに沿った形の会話でした。ところが、終わってから気がついてみると、さっきまで話していたことが完全にどうでもよくなっていました。

後に自分が解釈したのは、そういった個別の「映画」の内容について、AでもいいしBでもいいしCでもいいし何でもOKで起こるべきことが起きているだけ、ということを完全に知っている人の視線というものに直にさらされることで、それが「映画」であることが言葉を超えたレベルで伝わってしまったということではないかということです。

これは、トニー・パーソンズのミーティングやウンマニのミーティングで他の人の質疑応答を聞いていて感じたことでもありますし、実際そのようなことが起こるというのはルパート・スパイラがQ&Aで繰り返していることでもあります。

なので起こり得るということは理解できますが、実際に自分に起こってみると、なかなか強烈な体験です。半年以上に渡ってそればかり考えていたことがさっぱり消えて跡形も無くなったのですから。

自分の定義が一瞬で変わってしまうようなものです。

W先生の教えは、ラディカルなアドヴァイタの教師たちの教えと比較すると、現象寄りの話がかなり多く、いわゆる見えない世界の話も相当あります。その意味では純粋アドヴァイタ(変な表現ですが)を求める人には、何か違う印象をあたえるかもしれません。僕自身、たまにですが、テーマによっては「なんでこの話を聞いているんだろう」と思ってしまうこともあります。

ですが、生徒の側にある人たちに対するとても優しい眼差しや、豊富な修行経験から生まれる話の面白さ、深刻さにつながりようがない独特のふざけ方、それからエネルギー的な特異性は、僕がこれまでに接した他の覚醒者といわれる人たちとは確かに違う点だと感じます。

今年は昨年に続いて欧米のアドヴァイタの先生たちのサットサンに出来るだけ参加したいと思っているのですが、それと同時にW先生のところにも通い続けるだろうと思います。

W先生のサイト

(2012年7月追記: 2011年秋頃を最後に、W先生の勉強会等には参加していません。メールで問い合わせをいただいたので、念のため。また行くことがあるかもしれませんが)

(2013年2月追記: 思考が一時的に落ちたのは確かだが、この記事を書いた1年後に結局は東京を離れて山梨に移り、小学生の子どもたちは自由教育の学校に転校した。何が展開するかは、思考がどんなものとして現れるかにはまったく関係ない、ということだろうと思う)

(2014年6月追記: 先生の名前をイニシャル表記にした。読みようによっては否定的にも受け取られられかねない記事が氏名で検索したときに上位に出てしまうのは本意ではないため)

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