唯一実在する私 ルパート・スパイラ

 
ルパート・スパイラのQ&Aを紹介するシリーズは今年もしばらく続けようと思います。今日は、ラマナ・マハルシとニサルガダッタ・マハラジの教えを実践しようとして苦しんでいる人の質問です。(大文字で始まるPresenceとSelfは太字の実在自己と表しています)

156) The Real And Only ‘I’ Of Presence

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唯一実在する実在の「私」

Q.
私がもがいているのは、「私という思考」とその源泉を探し求めるということに関係しています。ラマナ・マハルシの本をこれまで読んできましたが、彼の本には「私という思考」の源泉を探求せよと書いてあります。私は、ラマナの言う自己であるその源泉を見つけようとして堂々巡りをしているような気がします。

A.
「私」という思考は対象であり、思考です。

「紅茶が飲みたい」という思考がその源泉を探求することができるでしょうか? できません!

「私は分離した存在である」という思考がその源泉を探求することができるでしょうか? できません!

「私」という思考は、単に「私は分離した存在である」という思考です。つまり、対象である「私」という思考には、その源泉を探求することはできず、これはテーブルや椅子がその源泉を探求できないのと同じです。

従い、「私」がその源泉を探求することについての質問は、「私」というのは選択したり探求したり行為したり決定したりすることができる存在である、と信じていない限りは成立しません。

自分とは、選択し探究し行為し思考し決定する「私」なのだと信じているとき、私たちにできる最善のことはその源泉を探求することだ、というのは確かにそうです。

ただ、私たちがこの探求をするときに発見するのは、見かけ上は不在のように見える、源泉から切り離されている独立した「私」といったものは存在していないということです。

映画で通りのシーンがスクリーンに映っていると想像してください。「私」を探求するのは、映画の中で登場人物が通りを行ったり来たりしてスクリーンを探しているのと似たようなものです。

それは、見かけ上の「私」(そして他の見かけ上のすべてのものごと)は、架空の「私」が探求しているまさにそのものからはじめから作られているということです。言い換えると、見かけ上の「私」がその源泉を見つけるのではなく、「私」は源泉のなかに溶解するのです。

別の言葉で言うと、見かけ上の私ははじめから実在の真の唯一の「私」なのですが、自身が実在ではない他のものであるという信念によって覆い隠されているように見えるのだということになります。

本当は、架空の「私」がその源泉に溶解するということですらありません。なぜなら、そもそも実在の真の「私」以外には何も存在していないからです。

このことが明確に理解されたとき、本当の「私」を探そうとする試みは自然に終わり、見かけ上の「私」は唯一で真の「私」としての姿を現します。

Q.
私はさらに、ニサルガダッタ・マハラジの「我あり (I Am)」に留まって他のすべてのもの(思考、感情など)を否認するという教えでも苦労しています。私のマインドも私も「我あり」に留まることができません。すべてを否認しようとすると、追い詰められているように感じます。

A.
あなたは完全に正しく、見かけ上の「私」は「我あり」にとどまることはできません。「我あり」ということが、そこに留まったり留まらなかったりできるような何かだと考えているとしたら、そのような「我あり」は物(対象物)であるに違いありません。見かけ上の「私」(それは思考です)が訓練して集中できるようになったとしても、その対象は「我あり」と呼ばれる物(対象物)にすぎません。それはひとつの心理的状態でしょう。

本当は、「我あり」に集中する必要も、そこに留まる必要もありません。あなた(どんなあなたであるとしても)は今存在していないのですか? この質問に対する「存在しています」という答えは、あなた自身の存在の確かさからやってきます。別の言葉で言うと、あなたはあなたが存在していることを知っていて、私は私が存在するということを知っています。

また言い換えると、「我あり」は常に最初からあります。それは状態ではありません。それはすべての状態がその中で現れる何かであり、それらのものを作りだしている何かです。

つまり、存在しているように見えるマインド、身体、世界のようなもののなかには既に実在が存在しているということです。

私たちは常にそれであり、それを認識するか否かに関係なく、それなのです。

私たちがこのことを理解していないかのように見えるのは、私たちが良く知っている自分自身である「我あり」を、見かけの上で覆い隠してしまう思考が生じたからに他なりませんが、実際のところはそうした思考がそれを覆い隠すということはありません。

そのことを明確に理解し、あなたの自己としてとどまってください。

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ルパート・スパイラのウェブサイトには200以上のQ&Aが掲載されていて、よくこんなに沢山の質問に対して辛抱強く答え続けるなあと思ってしまいます。が、昨秋SAND2010で目撃して理解したのは、「質問している主体は無知無明の誰かであり、自分はその無知をどうにかしないといけない」というような目で見ていないとき、それは辛抱強さを必要とするようなことではないのかもしれないということです。

逆にルパートから受けた印象は、目の前にあらわれる多様な表現に本当に驚嘆し、それを無条件に慈しみ楽しんでいるというものでした。

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