直接対話と読書は違う ネイサン・ギル

 
いま、イギリスのNathan Gill (ネイサン・ギル) という人の本『already awake』(2004年刊)を読んでいます。ネイサン・ギルは、一時はイングランドでミーティングをしていたようですが、現在はしていません。新しい本や文章も発表していません。

なぜ教えるのをやめたのかということについては、説明もされていないと思うのでよくわかりません。

アドヴァイタや非二元について本から情報を得ることと、直接対話をすることの違いについて、この本で彼が説明している部分が興味深かったので、その概要を紹介しようと思います。意訳ですがこんな感じです。

「分かっている人と同じ場を共有することは必ずしも必要とは言えないないが、大いに助けになるようだ。対話という状況に特有の切れ味は、本を読む場合には存在しない。本を読むことは『私』というキャラクターのストーリーの一部になりがちだが、直接対話することはストーリーから離れた本質を思い出させる。すべての質問はそのなかに『私』という要素が含まれているが、答えはその視点から離れたところから与えられ、その結果『私』は足元を切り崩される」

「生の対話の場合、巧妙なゲームが続く可能性が低くなる。本の場合はその内容をめぐってストーリーが組み立てられがちだが、質疑応答ではそのようなストーリーは継続的に弱体化させられ、その結果、話の内容からストーリーが生じることは難しくなる。」

「質疑応答で与えられる答えは、実際にはそれぞれの質問に対する答えではなく、質問そのものの土台を崩すものである。質問は、『私』の視点やその『私』がいかに悟るかというような観点からなされるが、その『私』が生じる以前の常にあるものを指し示すことで、質問は落ちる」

ということですが、これを読んでいてフーマンと天野清貴氏のセッションの記録を思い出し、さらに先日目撃したトニー・パーソンズやウンマニの妥協のない徹底的な指し示しの様子も思い出しました。

本やネットで情報を得ることのトリッキーな性質については、注意したいと感じます。(注意するという選択を行う人はそこに存在していない!と言われそうですが)

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