非二元の探究その4 グレッグ・グッド

 
グレッグ・グッド(Greg Goode)の非二元の探究(Nondual Inquiry)の紹介のその4です。これで完了です。

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(2) 物理的な物体の独立性を信じること

なぜこのことがブロックとなるのか?

「物理的な物体の独立性を信じること」というのはどういう意味でしょうか?これは、机や鉛筆が、気づきの領域の外側でもそれ自体で最初から存在していると信じているという意味です。そして、気づきが知覚機能を用いて、外に出てどうにかして物体に達し、情報を気づきの領域に持ち帰るということを信じるという意味です。

これはどのような種類のブロックなのでしょうか? 誰がそんな話をでっちあげられたのでしょうか! 物体が外側に本当に存在しているという信念が、歯を磨くことと同じくらい普通だなんて!

でも、物理的物体の独立性を信じることは、私たちが感じている分離感を生み出している最大の功労者です。というのも、物体が自分とは別のものだと信じているとき、私たちは物から分離していると感じるからです。この分離は、「私」と「私以外」の根本的な二元性を意味します。分離は信念そして感覚として表れます。この信念は「物体はあっちにあって、私が気がついているかどうかには関係なく存在している」と言い、離れ離れな感じ、遮断されたような疎外感、傷つきやすさ、苦しみの感覚が生じます。さらにこの分離という観念は、思考の世界にも広がっています。物理的な分離の観念は、実際、「違い」を示すもっとも強力な喩えのひとつとしての機能を果たしています。私たちが、あるものが他のものと異っているひとつのことについて考えるとき(緑と青、または私と私以外)、ほとんどの場合は空間的な観点から違いのことをとらえようとします。何かが他のものと異なるとき、それはしばしば、それらが何らかの形で異なる空間を占めていることから、そのように認識されます。喩えが理解されるとき、つまり物理的な分離というようなことが文字通りの真実であることはあり得ないと分かったとき、物はお互いに根本的には切り離されていないように見えます。私は「私自身」をひとつの位置として見ることはありませんし、他の位置を占めているであろう「世界」から完全に切り離されているとも見ません。

この特定の信念が障害となっていると私が気がついたのには二つの理由があります。まず、私が非二元の調査を体系的におこないはじめたとき、私にはたまたまこの信念がありませんでした。それより前の何年もの間、世界的な卓越した教師の一人(この一点を執拗に探究した人です)の助けによって、分離という信念は溶解していたのです。ですので自分自身の非二元の探究においては、この岩だらけの珊瑚礁を順調にすり抜けることができました。次に、他の人たちの探究を助ける中で、彼らが旅の途中で岩にぶつかること、ほぼいつも同じ地点でぶつかることを見てきました。実のところ、人々が探究のプロセスの中でこの岩にぶつかるのは、比較的後の段階になってからです。しばしば、それは彼らが俗世の物体を通り越したと考える頃に起こります!

物理的物体の信念は、私は身体である、またはともかく身体の中に存在するという感覚に関係しています。私たちはたいてい、自分自身とはこういうものであると考えているものの裏面として世界を経験します。この信念は典型的であり、自分ではないと信じているものから切り離されている感覚にいつも戻らせてしまうという理由で、非二元の探究における障害となります。この「自分でないもの」は、外部にあって独立した物であるとされているものを含んでいます。そして世界、大洋、宇宙とつながる体験を何度しようとも、独立したものであると考えている物から切り離されている感覚にいつも戻ってきてしまいます。では、物理的な物体よりも断固として独立しているように見えるものとは何でしょうか?

多くの人はたいていの場合、世界とつながっていると感じることができ、自分たちが気づきの世界のなかの気づきであるという信念を身につけています。しかし、物体が気づきの外側に存在しているという検証されていない信念によって、何かがあっちにあって、その何かは自分とは切り離されていて、自分はそれに気がついていないという心ひそかな疑いが常に起こってきます。このことは様々な不愉快さや心配につながり、それには自分が正しい道、正確な探究手法を選択しているのだろうかという心配も含まれます。こうしたことが起こる理由のひとつは、私たちがものごとを空間的な喩えで考えているということです。ですから、私たちは道や目標を、物理的な物体のようになんとなく「あっち」にあるものとして考えるのかもしれません。

探究が大いに進むと、遅かれ早かれ、気づきの外側に物質が存在するのかどうかという疑問にぶちあたるでしょう。ときにはこの疑問に自然に取り組むことは助けになります。

傍観者の物の見方

標準的な物の見方(しばしば傍観者の物の見方と呼ばれます)だと、「もちろん物理的物体は存在します!そんなことを問題にするとは、なんてばかなこと!」と言うでしょう。

傍観者の物の見方はいくつかの要素の組み合わせに基づいています。

自分に関する要素:傍観者の物の見方によると、あなたは自分の身体の中に存在している一種の傍観者です。

物体に関する要素:傍観者の物の見方によると、木やクルマのような物体は分離していて独立した物質的実体の塊で、それは主に気づきの領域の外側に存在し、ただしばらくの間だけ気づきの領域内に現れることがあります。

プロセスに関する要素:傍観者の物の見方によれば、私たちは次のようにして物体に気がつきます。私たち誰もが学校で習ったとおりです。つまり、木やクルマや他の物体はあっちにあって、あなたはこちらにいます。そうした外にある物体が一連の出来事を起こします。この因果連鎖、それには物体に反射する光や音の波を含みますが、そうした連鎖があなたの身体の感覚と交わるかもしれません。もしそうなれば、この因果連鎖はあなたの感覚と知覚の伝送路を通して信号と情報を送ることになります。その結果として、外側の物体の存在に気がつきます。

傍観者の物の見方に対する疑問

非二元の探究では、これらの前提をひとつひとつ調べます。それぞれの前提は立証されていないことが明らかになります。それにもかかわらず、この前提はすべて、切り離されて頼りなく無力な感覚の原因になっています。でも、これらの前提は私たちが分離しているという信念の正当な理由になっているでしょうか? たとえば、もし私が傍観者であるとしたら、その証拠は何でしょうか? 脳が傍観者であるということでしょうか? このことを知っていて証明しているのは何なのでしょうか? 私は脳が観察しているのを観察しているのではないでしょうか? 最初の脳を観察している別の脳があるということでしょうか?(これは際限なく繰り返される必要がありそうです)またはもしかしたら、私の傍観者としての自己は脳なのではなく、身体の内側にあるとても小さな感覚的な点なのでしょうか? だとしたら、それはどこにあるのでしょうか? 額の後ろ側? 純粋な感覚性が物理的にどこかに位置しているということがありえるでしょうか? あっちにある物体が観察されていないとき、観察そのもの以外にそれがあるという証拠が何かあるでしょうか?

これはただの無駄話のようです。傍観者の物の見方は事実に反するのですか?

これがまさにこの探究が調べていることそのものです!非二元の探究は、気弱な人のためのものではありません。この探究においては、ためらうことなく自分自身を完全にその中に放り込むある程度の勇気があることと、どこへ向かうとしても探究の道を進むことが助けになります。長年抱かれてきて人気のある信念とモデルに挑戦するというダビデとゴリアテのような状況では、いくらかの自信も役立ちます。

では、代わりになるものは何でしょうか?自由です!

この探究の目標は、代わりになるようなもっと賢明なモデルを見つけ出すことではありません。むしろ、目標はすべてのモデルには制限があるのだと理解することです。モデルや構造は超高層ビルや飛行機をつくるのには役立ちますが、ものごとの性質を調べるために自身の経験に従う上では超過荷物となります。これらの信念の本質を見抜くことで、そうしたモデルとその制限から解放されます。

そして、壁に衝突することもないでしょう! 自分自身とは世界と隔てられながら内部にいる傍観者であるという信念は、人生を送る上で必要ではありません。物理的物体を信じることは、道路を渡るときにクルマにはねられることを阻止してはくれません。というより、あなたの経験全体は驚くような滑らかさで満たされるようになります。実際、身体を安全で健康に保つことがより簡単になっていることに気がつくでしょう。生きることは軽やかで自由になり、素敵なダンス、自然な祝祭となります。

(翻訳紹介は以上)

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今回紹介したような探究方法はダイレクトパス(Direct Path)と呼ばれ、シュリ・アートマナンダ・クリシュナ・メノン(Sri Atmananda Krishna Menon)という人の手法が広く知られています。その系統で、ジャン・クライン(Jean Klein)、フランシス・ルシール(Francis Lucille)、ルパート・スパイラ(Rupert Spira)という流れがあるのですが、グレッグ・グッドの場合はシュリ・アートマナンダの著作を自分で学んだことに加え、フランシス・ルシールからの直接教わった影響もあるという感じのようです。

アドヴァイタの教えの欠点として(他のどんな教えもそうですが)、それが新しい概念になってしまって、生きた経験からの理解から遠ざかることがあるということがあると思います。その点、ダイレクトパスは自分の感覚から確かなことを元にして理解するということを重視しているので、概念のお化けになりづらいという利点があるのかなと感じます。

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