非二元の探究その3 グレッグ・グッド

 
グレッグ・グッド(Greg Goode)の「Nondual Inquiry」の紹介のパート3です。3回で完了の予定でしたが、長いので4回に分けることにしました。

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探究に関するよくある二つのブロック

恐れ
ほとんどのブロックは、ある種の心理的な恐れに辿り着きます。ものごとの究極的な性質に関する探究において、恐れがそれ自体を表現するよくある分かりやすい二つの形をここに示します。

(1) 悟りをやみくもに崇拝すること

「悟り」という言葉の言語的な特徴のひとつは、それがまさに最高のものを象徴しているということです。ある意味で、これは「ここ」という言葉に似ています。ジェーンとスーザンが向い合って立ち、「ここ」という言葉を口にしたとき、彼らはそれぞれ地面上の異なる地理的な場所を指しています。それでもなお、彼らはその言語を同じ意味で用いており、それを口にする人がそこにいることを示しています。

「悟り」もよく似ています。ジェーンとスーザンは、どんな特質が悟りの構成要素なのかということについて意見を異にするかもしれません(それは思考がないことなのか? または思考を信じることがないということか? 空中浮揚する能力も含まれるのか? 未来を予測することはどうか?等)。ただ、この言葉を使う者としてジェーンとスーザンがどのようなことを悟りの特質とするかについて合意したとしても、その言葉が示しているのは、最高のこと、最高善ということです。つまり、最高のものとしての悟りは、何億兆ドルかを払って取り引きの対象とするようなものではありません。

このことはまさに、悟りをやみくもに崇拝するのが考え違いであることを示しています(ただし、この崇拝はほぼ不可避であり、そのためこの誤解は探求が進むにつれてもっともっとわかりづらくなってきます)。悟りをどのようなものとして理解していようとも、何かの目的を達するために悟りを求めるのであれば、悟りを崇拝してしまっています。悟りで道具か護符か幸運のお守りを作り出そうとしています。その道具というのは、我が家にいるように快適で、恐れや不安感や不確かさや様々な問題から解放された状態を作ってくれるものです。考え方によって、ひとりひとりがさまざまな理由で悟りを求めます。自己批判が止まることを期待したり、恋愛関係の改善を求めたり、人気の有名人になることを期待したり、キャリアがましなものになることを求めたり、といったことです。悟りを求める理由が明確になっていることもあります。たとえば、グルから「悟れば、お前が熱心に求めているレコード契約が実現するだろう」と言われたために悟りたいと思っていた私の友人のように。

そして、ときには悟りを求める理由がそれほど明るみに出ておらず、隠れていることもあります。とても知性的で経験豊かなある人が、世界の究極の真理を知りたいと私に言ったことがあります。その人は20年間の禅の修業について自信満々に語り、最終地に至る準備は十分できていて、それは近づいているのだと言いました。私は彼に、なぜ究極の真理に関心があるのか尋ねました。彼はただ本当に関心があって、それが唯一関心のあることなのだと答えました。どのくらいやる気があるのかと思い、「どれほど本気で真理を知りたいと思っているのですか?」と訊くと、彼は真理は人生で何よりも大切なことだと言いました。私は彼の考えていることが分かりかけてきたと感じ、また尋ねました。「もし選べるとしたら、AとBのどちらを選択しますか? Aは至福の感情と絶えることのない心地良い感覚に満たされた人生です。Bは真理を知ることです」。彼は一分ほどためらい、こう答えました。「AとBは同じことです」

彼は悟りを自分の目標と同一視することで、悟りを巧妙に崇拝していたのです。強いスピリチュアルな文脈の中ではしきたりとなっているように、彼は悟りを求めることによってスピリチュアルな意味での正しいことをしていました。でも、彼は感情的な満足という自分の目的に合うように悟りを再定義するという「ごまかし」をしたのです。恍惚としている状態は、禅が定義する悟りとは間違いなく異なるものです!

「悟り」の正しい概念や誤った概念があるというわけではありません。まさにそこが面白いところなのですが、そういう概念はありません。悟りという言葉はスピリチュアルの語彙の中で曖昧さにかけては有数のものであり、曖昧さについて言えばおそらく「神」に僅差で輝かしい勝利を飾っているはずです!この言葉は体系的に曖昧なものになっています。この曖昧さと社会的に構成された性質こそが、その主な言語的目的を達するのに必要とされることなのです。目的とは、人の最高のスピリチュアルな願望を一言で表現するということです。そして、人によってそれぞれ異なることを望んでいます。

様々な伝統がこの言葉を違った意味で用いています。心理学に力点を置くスピリチュアルの流派では心理主義風に思われる定義をし、ヨガの流派は魔術的な概念を持ち、非二元の道では巧妙で抽象的で揚げ足取りをするような定義をします。複数の流派が定義の上で同意しているように見えるとしても、彼らの定義は、「マットの上に猫がいます」のような単純な正誤式の文章としては表現されていません。

この言葉について考えるときにより役立つ方法は、それをスピリチュアルの伝統への窓口として捉えることです。つまり、個々の伝統において言葉がどのように使われているかということは、その伝統がどのように知られたいのかということをはっきりさせるものなのです。さらに、それがすべてではありません。ときには言葉の第一の言語的な機能を最高のものとして扱って、二次的な目的に用いることもあります。つまり、スピリチュアルな宣伝のスローガンとして使われたり、何か他のそれほど最高ではないものを受け入れさせるために究極の趣を添えるものとして使われたりします。

ときおり、「悟り」という言葉のまさに曖昧さが巧みに利用されたりします。「ステーキを売るためのジュージューという音」として使われるのです。例えばグーグルで「スピリチュアルな悟り」という言葉で検索すると、どのようなサイトが検索結果として表示されるでしょうか。そのほとんどは、本やテクニックや教えや教師の売り込みです。「悟り」は、検索者の理想化と空想につけ込んだ、お金のやりとりを目的とした宣伝文句となっています。

そう、「悟り」という言葉は曖昧で、言語的な目的にかなっています。このことは、悟りが状態として、または実際にあるものとしては存在していないことを意味しているのでしょうか。この言葉には本当の指示対象というものがないのでしょうか? このことは当然ですが非二元の探究において、身体やマインドや猫やマットと共に調べるべきことのひとつです!

自己確認

当然ながら一定の確認は助けになります。探究に価値があるのかどうかにさえ疑問を持つこともあるでしょう。でも、進捗を確認しようとして探究そのものを中断することがないようにしてください。たとえば朝に探究をするとしたら、確認は午後にとっておいてください。毎週確認するよりも、毎月確認するほうがいいです。探究は自分のためになるという一定の自信がついたら、確認を減らす方が進むことができます。

なぜでしょうか?

確認と自己監視をしすぎることは、非二元の探究をしているときも、社交ダンスを習っているときも、逆効果です。強迫的な監視は、安全で保証された状態にいたいという欲求に基づいています。そして、監視することによって流れも途切れます。さらに監視することで、微妙な心理的カメラ撮影者のようなもうひとつの人格を作り出します。この人格も、いつかの時点では調べられる必要があります。

ダンス教室にいるとしましょう。あなたはタンゴのステップの難しい動きを習ったばかりです。ダンスの腕前が上達したかどうかをすぐに評価しないようにしてください。金曜の夜にダンスフロアでこの動きを自分が上手にこなしている様子を想像しないようにしてください。もし評価したり、そういう想像をしたりしたら、おっと、しまった! あなたはいま教わっている次の動きを見逃してしまっていることでしょう!

ダライ・ラマはかつて、仏教の修行の成果を評価するために、自分がより賢くなっているか、またはより思いやり深くなっているかを確認したいならば、そうしてもよいと言いました。「ええ、確認なさい。15年毎に!」と。

公開されている話と自分を比べること

監視のプロセスにはもうひとつの特徴があります。それは、素晴らしい悟りの物語を探し、その当然の結果として読んだことと自分自身の経験を比較するということです。「青い真珠を見ないと基準に達していないということだろうか? 頭のてっぺんから涼しいそよ風が吹いてくるのを感じていないが大丈夫なのだろうか? 身体感覚があるということはまだダメだろうか?」と。それはまるで、それらとまったく同じオプション機能を身につけていないと「それ」を手にしてはいないと言っているかのようです。こうした投影や比較はほとんど抑えがたいものです。こうしたものはそもそも探求のプロセスの延長であり、改善をしたいとか安心できる場所に行きそこにとどまりたいといった欲求です。

皮肉

こうした想像、監視、比較のプロセスには二つの皮肉があります。第一に、探究の結末は、こうであろうと期待されていることとは絶対に異なるということです。たとえば、悟りの到達点は様々な「進捗測定器」の特別に高い目盛り(より深いやすらぎ、より多い愛情、少ない分離感覚)に値するわけではありません。それはレベルに関することではありません。道のりの途中のどんなことも、その結末と比較すると量子的な違いがあります。「悟り前」の視点からすると、比較は避けられません。ですが「悟り後」から見ると、比較とか描写というようなことは一切ありえません!

もう一つの皮肉は、完了するためにも、または完了したということを理解するためにも、監視は必要ないということです。それは、高速道路で運転している― 降りるところを過ぎてしまったら間違った場所に着いてしまう ― こととは違います。探求が完了したときには疑念はありません。比較や想像を通して進捗を評価するといったようなことではないのです。それどころか、もし監視が続いているとしたら、探求は終わっていないということです。探求の終わりは、自己監視の終わりでもあります。

(パート3は以上)

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悟りという言葉とそれに向かう姿勢のトリッキーな性質について、面白い説明がされているなあと感じました。多くの探求者(括弧つきの「探求者」の方が的確かもしれません)と接してきた人ならではという感じです。

パート4はこちら

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