非二元の探究その2 グレッグ・グッド

 
Greg Goode(グレッグ・グッド)のNondual Inquiry (非二元の探究) の翻訳の3パートのうちの第二弾です。

規範的(descriptive)と記述的(prescriptive)という耳慣れない言葉が出てきたので調べてみたのですが、規範的とは「正しい」とされるようなことで、記述的とは実際にそうであるという「自然な」ことを示すというような意味で対比して使われるようです。以下、訳です。

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規範的なありかたと記述的なありかた

「すべきことは何もない」という教えは、エゴは見かけとは違って実際には存在せず、架空の自己がおこなういかなる方法もその同じ架空の自己を終わらせることはできないという洞察を表しています。ナイフは自分を切ることはできません。目は自分を見ることはできません。

「すべきことは何もない」という教えを理解する方法は二つありますが、それは規範的なものと記述的なものです。

(1) 規範的な意味

はじめは、ほとんどの人はこの教えを規範的に解釈します。そのように解釈すると、いかなる訓練も手法も探究も、どのようなことも避けたくなるのは当然です。なぜでしょうか? それは、どんな方法で何をしても、効き目がないと思われる同じ方法にまた戻ってしまうと考えるからです。そうなると何が起こるでしょうか? 真理の探求への切望が生じても、「何もすべきことはない」という新しい信仰がそれを妨害してしまいます。泥棒を捕らえてほしいと泥棒に要求できるだろうか、と。

これはもちろん逆説をもたらします。教えを規範的に解釈するとは、何かをすることの勧めとして、または何かをすることに反対する忠告として、それをとらえるということです。探求しないこと、瞑想しないこと、読書しないこと、何であってもそれをしないことを自分で積極的に選択しているわけです。あなたはいまだに「行為モード」で思考していて、しないことをしはじめることになります。これはそれでもやはり行為であり、より巧妙で気づかれない種類のものです。これはこの教えをめぐって当然生じる、よくある誤解です。

(2) 記述的な意味

記述的な意味というのは、一言で言えば、あなたが今でさえも決して何もしていないということです。行為は自然のものとされます。行為というものがおこなわれたことは一切ありません。一度たりともです。行為と思われているものはすべて、実際には自然発生的な事象であり、水の流れや、樹木から葉が落ちることと似ています。そのため、あなたの行動がどう表現されようとも関係ありません。皿を洗うこと、店に買い物にいくこと、非二元の探究をすること、このどれもが実のところ何らかの主体によって実行されているわけではありません。真の行為、出来事、創造者というものは存在しません。

この教えの記述的な意味は、すべての行為と行為者の無意味さ(または無本質性、非独立性)に焦点を当てています。それは、あなたの究極の自由を指し示す一つの方法です。というのは、あなたは行動して選択する個人として限定された存在であることから自由だからです。この自由はすべての行為に適用されます。これは強力な教えであり、それを少し知っただけでも、よりやすらぐことができ、罪悪感や心配は減ります。どんなことがおこなわれているように見えても、行為に伴うどのような努力や欲求不満や達成や自尊心や恥の感覚があっても、こうした側面には同様に実体や本質が存在しません。そうしたことは解決されることも見極められることもありません。

この無意味さは素晴らしく自由で徹底しています。それはすべての物事の性質であり、すべての出来事、行為、質、自己、世界そのものは等しく自由そのものです。非二元の探究も、その結果と共に、同様に自由です。ですから、非二元の探究であっても他に現れてくるどんな手法であっても、それらを進めない理由はありません。これは自由と安心なのです。

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パート3はこちら

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