非二元の探究その1 グレッグ・グッド

 
現代の非二元の本にはいくつかとても人気があるものがありますが、その一つがStanding as Awarenessです。ダイレクト・パスと呼ばれる系統のGreg Goode (グレッグ・グッド) という人の書いた本です。

この本の中で、見る人、見る行為、見られる物があるのではなく、見ることだけがあり、見ることと形は同じことであるという一節があるのですが、それが妙に頭のどこかを直撃した感じで、とても面白い思いをしました。

グレッグ・グッドはアメリカ人で、彼のウェブサイトによると、心理学と哲学を学び、哲学博士でもあります。アートマナンダ、ジャン・クライン、フランシス・ルシールなどからアドヴァイタ・ヴェーダーンタを学び、他にも浄土宗や中国の仏教にも造詣が深いということです。

見た目はこんな感じです。

ごっつい感じもありますが、笑ったときのこどものような目が印象的です。

今回、グレッグ・グッドのウェブサイトにあるNondual Inquiry (非二元の探究)という文章の翻訳と紹介の許可をもらったので、三回に分けて紹介したいと思います。

最初は「非二元の探究についてのよくある質問」です。

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Q.
非二元の探究とは何ですか?

A.
「非二元の探究」とは、経験が今このときでさえ実際には非二元的であることを理解するための方法です。より良い経験を与えてくれるものではなく、経験がまさに自分の自己そのものであることをはっきりさせるものです。非二元の探究は、経験がいかにやさしく完全であるかということを明らかにします。なぜなら、自分の自己とは完全な優しさだからです。

非二元の探究とは、経験の性質、世界、身体、マインド、生と死を調べることです。自己探究、分析的瞑想、公案修行、または自己知識についてのソクラテス式問答といった名前で呼ばれることもあります。「非二元」とは、「二つでない」ことを意味し、現象の多元性は実際には存在していないという意味を含んでいます。探究の終わりには、分離していて他のものと区別できる何かが存在するという印象は失せ、見るものと見られるものの間にある隔たりの感覚が消えます。こうした印象や感覚に起因する不安はなくなります。そして、エゴ、行為、または属性がそもそも存在していたという感じもなくなります。この理解を表している一つの一般的な言い方は、「何も起こったことはない」というものです。

Q.
なぜ非二元の探究をするのでしょうか?

A.
ほとんどの人は、二つの理由のうち一つのことからこの探究をします。

(i) 探究が苦しみをやわらげます。それは、探究が深い癒しをもたらすものだからです。このことは、世界のもっとも愛されている聖人、賢者、哲学者、東洋でも西洋でも、宗教的なところでも世俗的なところでも同意されていることです。非二元の探究をほんの少ししただけでも、日々の生活をより快く穏やかなものにしてくれます。自然発生的な受容と落ち着きが生まれます。

(ii) 一部の人にとっては、探究がそれ自体の優しさを生み出し、それは結果として探求者にもたらされるどんな恩恵ともまったく違うものです。

Q.
この優しさについてもっと教えてください。

A:
それは、自分が愛されている場所である家に戻ったときに感じる、親しみのある感覚、そして場合によってはワクワクする感覚に似ている温かさです。もし非二元の探究をすることでそういった感覚を得るとしたら、それは他の何よりもしたいことであるはずです。それから、非二元の探究には書籍も機器も要りませんし、蓮華座のような特定の姿勢をする必要もありませんから、ほとんどどこにいてもすることができます。

この方法に惹かれる人たちは、マインドが忙しくしている場合を除くと、昼でも夜でもふと気がつくとこの探究をしています。インドに「あなたの頭はすでに虎の口の中にある」という言葉があります。これは、優しさを経験そのものと区別することができなくなるまで、探究はあなたを解放しないということを示しています。

Q:
どのように非二元の探究をするのでしょうか?

A:
探究をするにはいろいろな手法があります。生きるとは何か、経験とは何かということについて徹底的に調べます。快適な生活を送るにはどうするかとか、望ましい経験を得るにはどうしたらいいかといったことではなく、そうした事柄の性質のほうに焦点を合わせます。これは本当に見かけどおりのものなのか、と。

Q:
それはまるで大学の哲学の授業を受けているように、知的なものであるように聞こえます。

A:
必ずしもそうではありません。知的な行為としてだけこの探究を行うとしたら、あなたの言うとおりでこれは学期末レポートくらいの意味しかありません。でも実際のところ、非二元の探究をする人は抗しがたいほどそれに惹きつけられ、あたかも生活が探究に依存しているかのようです。私がこどもの頃、そして若い頃、いつも気がつくとこの奇妙なことをしていました。それは、この探究に名前があるということを知るより何年も前でした。それは宇宙の秘密を探る壮大な冒険のように感じられました。そのように思っていたのですが、それは私がまだ11歳の頃でした!

Q:
どうしたら、探究において進歩していると自分で分かりますか?

A:
究極的には進歩について語るのは無意味なことです。というのは、本当は進むことも探究も存在していませんし、何かをしている誰かも存在しないからです。でも、この探究にあなたが惹きつけられている場合には、ゴールに向かって進んでいるように感じられるでしょうし、そのときに進捗を確認しないようにするのはとても難しいはずです。

でも、あまり頻繁には確認しないでください。探究をしながら確認をするのはやめてください。確認は後にとっておいてください。そして確認するときは、自分の背景にある、または平均的な精神状態を確認するようにしてください。肝心なのは日常レベルです。もし測定したいなら、自分のピーク体験ではなくベースラインとなる経験から計ってください。

探究の途中で確認できることをいくつかあげておきましょう。

・私はより穏やかになっているだろうか?
・ハートは開いているだろうか?
・マインドが忙しいとい以外、何度も何度もこの探究をしているだろうか?
・分離の感覚は以前より緩んでいるだろうか?
・優しさの感覚が経験のなかでもっと広がってきているだろうか?
・説明できないような自然発生的な喜びがときどき湧き上がってくるだろうか?
・他の人たちや世界と、よりつながっている感覚はあるだろうか?
・自分のもっとも安心できる前提に疑いが生じたときにどう感じただろうか?探究によって自分がひっくり返されたり裏返しにされたりしたように感じただろうか?
・探究のなかで、自分が抵抗を感じるようなことがらが持ち上がっているだろうか?(こうしたことが起こることがあります。そして皮肉なことにこうした執着がある場所において探究はもっとも意義深くなります)
・ある一定の感情を得ることよりも、自分が調べていることの真実を知ることのほうを選ぶだろうか?(このシフトは、後に探究が完全にもっと微妙なレベルに至ったときにしばしば起こります)
・確認の頻度が減っているだろうか? 探究における自分の「進捗」があまり重要でなくなってきているだろうか? 探究それ自体が「ご褒美」として現れてきているだろうか? 離れたゴールを目指すという考えがあまり意味をなさなくなってきているだろうか?

Q:
先生や案内者が必要でしょうか?

A:
必ずしも必要ではありません。すでにこういった脇道を旅した経験のある案内役から助言を得られることもあるかもしれませんが。助言は、本、友人、グル、先生、カウンセラー、両親、こどもからも得ることができます。花でさえ何かを指し示してくれます。質問を感じれば感じるほど、心は先生のほうに向くようになるでしょう。

Q:
非二元の探究はどこで生まれたのでしょうか?

A:
一般的には、世界のさまざまな叡智の伝統に由来すると言われています。世界の大きな宗教のほとんどには、神秘主義的、秘教的、または哲学的な側面があって、そこに非二元の探究が含まれています。キリスト教には薔薇十字運動を含む神秘主義的な面があり、ユダヤ教にはカバラがあり、仏教には中観派があり、イスラム教にはスーフィズムがあります。非二元の探究は非宗教的な装いをまとうこともあり、それはプラトン、プロティノス、ライプニッツ、スピノザ、ジョージ・バークリー、ブランド・ブランシャード、ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン、リチャード・ローティを含む西洋の哲学者たちが示唆したもののなかにあります。

Q:
そして、この探究はどこに至るのでしょうか? 終点はどのようなものですか?

A:
恐れと苦しみの終わりが、その至るところです。罪悪感、妬み、恨み、消えない怨念、自信喪失も終わります。探究は、得点をつけようとする衝動、「これをすることは自分にとって何になるんだろう?」という疑問につながるそうしたものを絶滅させます。

非二元の探究をしていくと、その過程で日常生活はより穏やかになります。探究をしていなかったら不安や自信喪失につながっていたかもしれないような出来事に接したときにも、満足感を見出していることに気がつくでしょう。落ち着きが愛しくて親しい仲間になります。

非二元の探究が決着すると、世界の「正体を見抜いた」かのようになります。探究の優しさがすべての経験に広がっています。分離しているように感じることはなくなり、何かから遮断されているように感じることもありません。覆いやスクリーンといったフィルターを通して経験しているように思えることがなくなります。行為は自由でオープンで常に新鮮なものになります。自分自身と機能の能力を失うかわりに、世界と完全な自発性を手にします。あなたは家にたどり着いて、そして家を去ったことはなかったと知ります。

このことを描写する伝統的な方法は無数にあります。こうした描写は、普遍的な「覚醒」から禅の「すべき仕事は何もない」やヒンズー教の「シヴァ神と踊る」に至るまで、抽象的で詩的で逆説的に聞こえます。

そういった言葉は指標であり、そのいずれもが文字通りのことを意味していません。なぜでしょうか? それは、まさに見ることそのものの正体を見抜くからであり、このようにして探究は探究そのものを分解します。これは、まるで休む場所などどこにもないかのように抽象的に聞こえるでしょう。まさにそれが要点なのです。すべての支えと参照点が消え、そして喜ばしいのは支えの必要もなくなってしまうということです!

Q:
でも私は先生たちが「すべきことは何もない」と言うのを聞いています。何かをしようとすることは根本的な問題に対しては助けになりません。非二元の探究は、このこととどう整合するのでしょうか?

A:
逆説的に聞こえるでしょうが、非二元の探究は実のところ、「すべきことは何もない」という教えの真実を体験するための伝統的な方法のひとつなのです。このことは、とげを抜くのにとげを使って、抜けたら両方捨てる、というような表現で古くから示されています。

(よくある質問は以上)

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最近、かなりラジカルなアドヴァイタ(すべきことは何もない、することができる個人はいない、そもそもするかしないか決めることができる人がいるというのは幻想、など)に浸っているので、ここまで効果効能をうたって探究をすすめる表現に接すると、ある意味でぎょっとします。

ですが、とても面白くも感じます。棘など最初から存在していないということを分かっている人が棘の抜き方を親切に教えるという点が、いたずらっ子のような笑みが出てくる所以なのかな、という感じもしています。

パート2はこちら

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