投影を許さない普通さの恩恵

 
有名な覚者やグルには伝説というか特別なエピソードが多いです。

ラマナ・マハルシが何年も洞窟暮らしを続けてネズミに足をかじられるままにしていたとか、ラーマクリシュナは踊っている最中にサマーディに入ると立ったまま硬直して何時間も戻ってこないとか、ミラレパは自由に空を飛んでいたとか、ヨガナンダの身体は死後20日以上も腐敗の気配を見せなかったとか、いろいろです。イエス・キリストに至っては奇跡のデパート状態です。

10月にSAND2010に行き、今回ドイツとイギリスに行き、現代のいろいろな覚醒者に会って気がついたことは、そうした伝説的な特別さというのが障害になっているということです。

特別さというのは必ずしも本人が主張したものではなく、信者が後に創作したものもあるのかもしれません。

いずれにしても、そうした特別さと覚醒・悟りというものを結びつけてしまうことは容易に起こることで、そうなると特別な違いというものを更に投影し続けることで、特別な覚者たちと何もない自分という分離が強化されるのかなと感じます。

このあたりについては、髙木悠鼓さんが最近のブログ記事で、アジャシャンティの言葉を引用して鋭く警告しています。

その意味では今回出会ったロジャー・リンデンには特別さのかけらもない(いい意味で)という感じで、本当に普通のおじさんであり、何の投影も許さない雰囲気がありました。

ジェフ・フォスターも普通のいまどきのお兄さんというイメージで、特別な言葉を使うわけでなく、サイキック能力系のエピソードを語ったことも皆無で、同じように投影をあまりさせません。(彼自身は覚醒や悟りというものに対して以前は大いにそういう投影をしていたと語っています)

アジャシャンティは上記のように警告をしながらも、特別に聞こえる名前を使っていたり、しゃべりのなかで一見特別な雰囲気を発しているので、多少の投影(人によっては多大な投影)を許し、それがアイドル化を許している部分はあるのかなと思います。

アジャシャンティがそうだとは言いませんが、先生たちのどこかに、生徒に向かったときに「分かっている自分と分かっていないあなたがた」という部分が少しでもあれば、それが投影と誤解を許す微妙で絶妙なきっかけになるのだと思います。先生本人が自覚していないごく小さなところにも、生徒はひっかかる可能性がありそうです。

なので長期間先生をやっていても、投影を許さないセイラー・ボブ・アダムソンのような人たちは、アジャシャンティのように沢山の生徒(信者?)に囲まれるということはありませんが、逆にそのことが一つの質を表してもいるのかなという気がします。

今の僕にとっては、そういう普通さは非常に助けになっている感じです。

広告