ロジャー・リンデンのミーティング

 
昨日ミュンヘンからロンドンに移動し、今日はロジャー・リンデン(Roger Linden)のミーティングに行ってきました。

彼のことは先週読んだEveryday Enlightenmentで知りました。イギリス人で、マハリシ・マヘシ・ヨギの超越瞑想(TM)の教師をしていたことがあって、心理療法とフェルデンクライス・メソッドもする人です。90年代始めにTMを辞め、その後ジャン・クライン(Jean Klein)と出会い「一瞥」の体験をし、99年にトニー・パーソンズのリトリートでまた一瞥があり、その後散歩中に覚醒したということです。

イギリス各地でミーティングをしているそうですが、普段は心理療法やフェルデンクラスの個人セッションをして生活しています。

トニー・パーソンズの流れ、つまり「個人は存在しないため、当然個人にできることもないし選択もない」という原理的なアドヴァイタの人のはずなのに、サイコセラピーなどを続けているという点にも興味を持ち、一度話を聞きたいと思いました。

ロジャーのロンドンでのミーティングは自宅で行われていて、ロンドン北部の普通の住宅地にあるあまり大きくない家に着くと、全部で15人ほどの人が集まりました。

ロジャーは優しそうな紳士という感じの人で、ユーモアはあっても一切妥協をしない厳しさが同居しているトニー・パーソンズの感じと比較すると、肩の力が抜けるという印象でした。

ミーティングは彼の話で始まり、その後Q&Aに移るという普通のサットサンの形式でした。

今日は地下鉄に乗ってミーティングに向かう時点から、多少おかしい知覚状態になっていて、ミーティングが始まったときは頭が止まっているんだか混乱しているんだか分からないという感じでした。が、その感覚は最初の数十分で収まりました。

ロジャーの話は、つまるところはトニー・パーソンズと同じなのですが、トニーほど割り切れる感じでは話さず、何かを言った後に「でもこれは真実ではない」とか「言葉にした途端にそれは嘘になっている」とか「実際これはどっちでもいい」とか「確かなことは(私が)あるということだけで、それ以外はいくらもっともらしく見えてもすべて特定の視点からのストーリーにすぎない」と何度も繰り返していました。

その表現のできなさが、それがそれである所以なのだろうという感じがしました。

「覚醒とは何か、悟りとは何かと考えたり予測したりしている内容は絶対にそれではない。それは内容ではありえず、マインドは内容・対象でないものをつかまえることができないからだ。映画の登場人物がスクリーンの存在に気づこうとしているようなもので、それは起こりえないこと」ということでした。

ある女性が「アンマ(アマチ)が、悟りのためにはいい人になれとか奉仕をしろとか瞑想をしろとか食事に気をつけろとかありとあらゆる行為をすすめるが、それは悟りや理解とは関係ないということは分かるつもりだが、彼女ほどの人が何度も言うので何かあるのではという気がしてしまう」という質問をしていました。

これについては「見かけ上の存在である個人が、何かをすることを通して見かけでないものに到達するのは原理的に不可能。それは絶対に個人には起こらないし、どんなことを個人がしたとしても、それは気づきの中で起こる内容の話であり、永遠に不変の気づきとは何も関係ないことです」と答えていました。ただし、「それもまた一つの見解であり、対立する見解がありえる以上、真理とは全く別のものです」と付け加えていました。

この最後の注釈が常につけば、ではこのようなミーティングをすることに何の意味があるのかとも思ってしまいますが、話されている内容にまったく意味がないということが強調されていること自体が世界のパラドックスを浮き上がらせることになっているのかなと感じました。

なお、夢から醒めること(非二元の話)と夢の中でマシな登場人物になること(心理療法やボディーワーク)がどう両立するのかと聞きましたが、その二つはお互いにまったく関係ないことではあるが、肉体的・精神的な緊張を取ることが自分の仕事であるからやっている、ということでした。非二元を生活のための仕事にしていないというのはロジャーのユニークな点かもしれません(実際、本も出版していません)。

10月にカリフォルニアのSAND2010でいろいろな覚醒者の話を聞き、また今回トニー・パーソンズとロジャー・リンデンのミーティングに出たことで分かったのは、要するに本当に分からないということです。その分からなさの中で少し楽になっている気もしますが、楽になるということがいつの間にか副次的なことになっていることにも気づいていて、変な感じではあります。

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ロジャー・リンデンのミーティング」への3件のフィードバック

  1. お話、面白かったです。
    パラドックスが現象の本質なんでしょうね。
    この矛盾が錯覚・固定観念の解体に向かわせているような気がします。

    「楽になるということがいつの間にか副次的なことになっていることにも気づいていて、変な感じではあります。」
    面白いです。「楽」という感覚への依存がなくなりつつあるのでしょうね。

  2. 現象の世界のことはいろいろな言葉で説明できて、それに納得することもあれば、納得しないこともあれば、後になってやっぱりあれは・・・と納得することもあったりして、とにかくマインドは理解したいということを続けているようで、それがマインドがすることというよりも、その動きがマインドといわれる動きなのかなと思い、それをまた分かったような気になっているのがマインドであるということからは逃れられないし、逃れようとするどんな抵抗の動きもマインドそのものであるならば、もうそれを受け入れるもOKを出すも許すも何もなく、そういうことを選択できる気になっている主体はそもそも最初から存在せず・・・、こういう考えがただ次々と起こっているということに驚嘆するばかり、と言うとそのことが何かいいことのような気がしてマインドの手柄にしようとする動きが起こり・・・・、という感じで本当にもう・・・・・です。

  3. わははは。すごく伝わってきます。
    マインドはマインドが運動するままに、でいいんじゃないですか?どちらにしてもどうにもできませんから。
    それも神の意志^^

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