トニー・パーソンズ 3日目

 
トニー・パーソンズ(Tony Parsons)のウィークエンド・ミーティングの最終3日目でした。2日目に生じた憂鬱が完全に続いていて、最後まで聞いていられるかどうかという感じで始まりましたが、どうやら完了まで聞いていられました。

今日面白いと思ったのは、いわゆる覚醒体験(目覚めではなく一瞥という表現が使われていました)をした人が何人か質問をしていたことです。その内容は、個人が消える恐怖についてだったり、混乱だったり、無意味さや虚しさだったり、一瞥体験中は個人がないのに個人の感覚が戻ってくる奇妙さだったり、いろいろでした。

共通しているのは、その人たちにとって探求は終わっていないように見えたということです。探求が続いているということは答えを得ていないということで、明らかにそこには答えを求める分離した個人がいるということになります。

一瞥といってもそれは来ては去るものであり、あくまでも体験であり、その体験のオーナーシップ(所有権)を主張するようなことが起これば当然ながら分離は強化されるわけですが、「私は何度も一瞥をしたんです」と主張する質問者の声のトーンを聞いていると、分離と収縮のエネルギーが感じられました。当然トニーからもその人たちのその収縮部分に対する反応が出て、傍から見ていて難しいパズルのようだと思いました。

すべての「どうすれば〜ができるか?」という質問には、「行為する主体があるという前提に立っている」とか「原因と結果があるという二元論に陥っている」とか「いまあるがままから離れたところに何かあるという分離を生んでいる」とか「することに何か意味があるというストーリーに入っている」といった原理原則の答えが戻ってくるため、二日目と同じで今日も後半は沈黙が増えていました。

ただし、トニーが今日の最初に「ここでは言葉の交換だけが行われているように見えるかもしれないが、それよりはるかに多くのことが起こっている(と言っても、あくまでもすべては見かけ上の話だが)」と言っていたように、非二元の理解を長いあいだ生きてきた人の存在そのものが何らかの理解(または崩壊?)を促しているのかなという感触はありました。

ホテルへの帰り道、降りしきる雪とクリスマスバザーの明かりと続く人波を見ていると、それが幻影のように感じられる瞬間がありました。

耳にたこができるほど今回聞かされ続けた「すべて起こっていることが起こっているだけ。誰もいないし何の意味も重要性もない」という言葉も頭の中で響き、浮遊感と共に奇妙な安心感もそこにあったのが不思議でもあり楽しくもありました。

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トニー・パーソンズ 3日目」への3件のフィードバック

  1. はー、トニーさんて方は徹底してますね。。
    僕も最近「行為者はいない」という釈迦の言葉で衝撃をくらった口で、ずーっと考えていたときに、ふと「世界には誰もいないじゃん」という荒涼たるイメージが湧いて一瞬恐怖が走りましたけど、ここで書かれている一瞥とは違う感じかもしれませんね。
    しかし、同じようなタイミングで、こうしてヒロさんの体験読んでいるのもご縁かなーなどと感じています。
    僕の場合は恐怖は一瞬だけで、むしろ「無私」の理解が深まった、腑に落ちた、という実感のほうが強い感じですね。
    だからといって日常が幻想にみえるわけではなく、今までと何も変わらない感じですが、何か荷が降りたような安心感のようなものはありますね。体調はいまいちですが。
    今は、個々の人間それぞれに個別の意志がなくても、それはそれでありだよなー、日常は変わらないわけだし、期待と落胆もなくなるし、などと気楽な感じにもなってきました。
    そーいえば、ここ1年くらい2度ほど、突然、現象そのものが重苦しくまとわり着いている感じがし、息苦しくて逃げ場がどこにもなくなるような感覚がわき、精神が不安定になったことがありました。これも数分という短い時間でしたけど。
    今思えば、関連があったのかなー、などと感じていますがどうなのか。
    続きの記事楽しみにしています。

  2. コメントありがとうございます。

    トニー・パーソンズは、「何もないことがわかったとき、nothing is everythingということが分かり、そのときすべてが手に入る」と何度か言っていました。とは言っても個の幻想の中で生きてきた慣性と、そのような幻想を生きている人たちの世界が持つ力とで、そのような認識は一度起こればそれで完了ということでもないのだと思いますが、そのニュアンスのようなものには触れることができた気もしています。(触れることのできる自分などどこにもいない!と指摘されそうですが)

    トニーのウィークエンド・ミーティングは終わったので、報告は一応これで終わりですが、ロンドンで別の教師のミーティングに出る予定なのでそれについてはまた書きます。

  3. 最近感じるのは、現象・出来事は、錯覚のまま固まっているエネルギー(個別の私)に揺さぶりをかけて解体させるような運動をしているのじゃないか、ということです。自分の過去を振り返っても、自我が破壊されるくらいのショックな出来事が節目節目にありましたし。
    この手の話がしやすい人の特徴として、やはり過去に衝撃的な体験(人間関係が思い通りにならず(恋愛とか、仕事とか)、ひどい葛藤)をし、精神的苦痛のピークを経過している方が多いように感じます。
    否が応でも内面に目を向けざるを得なかったような体験。
    今になってみると、そんな感じがします。
    「個別の私」は本来存在しないけれど、現象場には「個別の私」という錯覚が固定化したエネルギーが運動しているわけで、たぶん肉体が死ぬときまでに解体されなかった自我のエネルギーが「霊魂」と呼ばれているのではと思ったりしてます。
    なので釈迦は輪廻転生の話には、一切何も答えなかったのだと想像します。

    自我が解体されるプロセスは、千差万別にありそうですね。トニー氏やマハラジのように、1つの観念を徹底的に埋め込み、そのエネルギーに自我のエネルギーを吸収させて限界まで肥大化させ、自ずと解体させるようなプロセスもあれば、ラメッシのように理論的な観念で自我自身が自己解体せざるをえないの運動に導く場合もあれば(僕のような理屈屋には特に効く)、禅問答のように知的理解を超える問いに自我をフォーカスさせ自己解体させるようなプロセスもあるし、いずれにしても自我の緊張を限界まで高めて破壊させるような共通点があるかもしれません。まあ他にもいろいろなんでしょうね。
    いずれにせよ、そのプロセスは「未知の運動」によって起こるわけで自我には全く何もできないのですが。。
    と、だらだらと長くなってしまいすみません。
    ロンドンミーティングの報告楽しみにしています。

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