トニー・パーソンズ 1日目

 
昨晩、ミュンヘンに来た目的であるトニー・パーソンズ (Tony Parsons) のミーティングに行きました。初日は1時間半、2日目と3日目はそれぞれ4時間という構成です。

Open Secretという著書で知られるトニー・パーソンズについては、いわゆる現代のアドヴァイタ系教師の代表格ということ以外はあまり知らず、本もそのOpen Secretを読んだことがあるだけでした。ですが、『Everyday Enlightenment』で何人かの話に彼の名前が出てくることに気がつき、実際にトニーの話を聞いてみたいと思ったというのは昨日書いたとおりです。

100人弱集まっていたように思いますが、おそらく聴衆はみなドイツ人で英語ネイティブではなく、また通訳もなしだったので、トニーがゆっくりと話をしてくれて助かりました。

トニー・パーソンズの話は徹底的に原理主義的というかラディカルなアドヴァイタで、いかなる二元性も却下するものでした。セイラー・ボブ・アダムソンのLiving Realityに出ていた対話をすぐに思い出しました。

誰かが質問をすればすぐに「そこには誰もいない」「心配すべきことは何もない。なぜなら心配する人は存在していないからだ」「起こっていることに意味はない」「現象にいいも悪いもない」「目的を見つけようとしたり探求したりするのは無意味」「覚醒するためにできることは何もなく、そもそも覚醒する人は最初から存在しない」「何も起こってはおらず、ただ見かけ上は起こっているように見えるだけ」「すべては見かけ上のストーリーであり、見かけ上の個人が成長につれてまわりの個人から個人扱いされ続けてきたという一種の狂気の中で展開している」といった調子でした。

それに対して「でも実際に個人という感覚がここにある」と言う人がいれば、「感覚はあるかもしれないが、それは見かけ上のことで、個人は存在していない。感覚を感じる個人はいない。身体があるのは見えるが人間はここにはいない」という感じで、徹底して妥協しない一元論が展開されていました。

僕は最初の30分で、「これ以上聞いても同じことの繰り返しで意味がないなあ。あと二日あっても、聞いたことがあることを何度も言われるだけで全然面白くないぞ、これは」と感じていました。

でもその後、違った感覚も出てきました。

それは、「この話によって見かけ上の個人が期待できること、得ることができることは何もない。全くない。逆に個人の不在、個人の死があるだけだ。個人はこの話にぞっとするしかない」という意味のことをトニーが何度か言っているのを聞いた後のことです。

見かけ上の個人が見かけ上の何かを得ようと頑張っていること、A地点もB地点もないのにそれを自分で創りだして目標に向かって進んでいる気になっていることの滑稽さを感じ、重さが少しなくなったような気もしました。

そして、映画『ブレードランナー』を初めて見たときの妙な感覚、世界が手から滑り落ちるような感覚を思い出し、現実感覚が希薄になるような感じを受けました。そして同時にそれに対して恐怖が湧き上がってくるのも確かに感じました。

トニーは、彼の最近のリトリートで起こったエピソードを紹介していました。

ある女性がリトリートの何日目かに歯磨きをしていたときにリアリティを一瞥したそうです。そして一瞬にして、それを否定し消し去ろうとする個人が戻ってきたということでした。個人という感覚はそれほど習慣化していて、それ自身の死と不在を決して受け入れないという話だったと思うのですが、しがみつきたくなるのも分かる気がしました。

個人が得るものは何もないというなかで、何の因果でヨーロッパまで来てこんな話を聞いているのだろうとも思います。それに、アドヴァイタを概念として注入しているだけじゃなかろうか?(北朝鮮が米軍兵士に行った洗脳のように)という疑問もあります。

が、二日目の話を待ち望んでいる部分も確かにあって、奇妙な感覚です。

次へ続く

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